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オットリーノ・レスピーギってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]Concerto Gregoriano / Poema Autunnale

オットリーノ・レスピーギ(1879-1936)は、「ローマ三部作」でもお馴染みのイタリアの作曲家です。中学校の音楽の教科書にも度々登場しているこの音楽家は、作曲家として注目を浴びることが多いですが、実は演奏家としても長く活動していました。

今回は、オットリーノ・レスピーギについて、その生涯やエピソード、亡くなった原因などについて詳しく解説していきます。

オットリーノ・レスピーギの生涯

レスピーギは、音楽家の父の元で早くから音楽を学んでいたそうです。作曲の才もありましたが長らく演奏家として活動していたこともあり、作曲家として大成したのは比較的後になってからでした。

音楽家の父の元で育つ

レスピーギは、音楽家の父と感受性豊かで教養の高い母の元に生まれ、幼少期から英才教育が施されました。父からはピアノとヴァイオリンを学びました。

12歳の時にボローニャ音楽学校に入り、本格的にヴァイオリンとヴィオラの演奏奏法を学びます。この時、作曲法も授業を受けていたそうです。

演奏家として

ボローニャ音楽学校で8年間学び、優秀な成績と共に卒業した翌年には、ロシアのペテルブルク王立歌劇場の第一ヴィオラ奏者に迎えられ、演奏家としての道を歩みだしました。

ペテルブルクの王立歌劇場には1年間しかいませんでしたが、ボローニャに帰省後はムジェリー二五重奏団に加わり、室内演奏活動をしていました。

5年ほどムジェリーニ五重奏団の一員として活動した後、今度はベルリンでガルディーニ=ゲルスターの歌唱学校のピアニストに迎え入れられます。
弦楽奏者として活動してきたレスピーギが今度はピアニストとして活動することになったのです。

2年ほどピアニストを務めたレスピーギは、ローマに戻ります。ここで作曲活動に取り組みながら、ピアニストとして客員演奏活動を行ったり、指揮者として活動したりと忙しい日々を過ごします。

1919年に結婚した後は、声楽家の妻の演奏活動にピアニスト(伴奏者)として同行することが増えました。

作曲家として

レスピーギは、ボローニャ音楽学校で作曲法を学びましたが、これといった作曲もできずに悩んでいたそうです。
そしてロシアに赴任した際、ロシアの大作曲家であるリムスキー=コルサコフと知り合い、彼に作曲を師事することになります。
このことが、後のレスピーギの作風に大きな影響を与えたことは言うまでもないでしょう。レスピーギのどこかエスニックな音調は、この経験が作り出していたのです。

ロシアから帰国したレスピーギは、ボローニャ音楽学校で作曲科を卒業し、改めて作曲家としても活動することを決心します。
五重奏団に所属している時も、歌唱学校のピアノ伴奏を担っている時も、作曲を続けました。
そして、1910年11月に初演されたオペラ「セミラーマ」が大ヒットし、レスピーギは作曲家としての名声を確立することに成功したのです。
この時レスピーギは31歳で、他の作曲家と比べても遅咲きだったことがうかがえます。

作曲と後進の育成

作曲家として名声を得たレスピーギは、1913年にローマのサンタ・チェチーリア音楽院で作曲の教鞭を取ることになります。

1915年には作曲家自由講座を制定し、後進の育成により熱を注ぐようになります。
レスピーギは、自身が作曲で苦労したからこそ、作曲家になりたい若手音楽家をよりスムーズに作曲家へと教え導くことが使命だと感じていたそうです。

熱心な指導が身を結び、門下生からはペエドロッティ、ロッシ、ジェルマーニといった優秀な音楽家が多く輩出されました。

この功績が認められ、1923年には音楽院の院長に就任しました。
しかし、院長の仕事と作曲、作曲家志望の若手音楽家の指導、すべてをこなすのは難しいと感じたレスピーギは2年後に院長職を辞し、作曲の上級過程の指導に専念することにしました。

晩年

作曲家としての活動、演奏家としての活動、そして音楽院での功績が讃えられ、1932年にイタリア学士院の会員に選出されました。

その2年後の1934年には、ハンガリー王立アカデミーの名誉教授に任命され、レスピーギはここで後進指導に尽力する予定でした。
しかし、1936年に軽い流行性感冒に似た病に罹り、これをこじらせて3か月以上も不健康な生活を強いられました。それが原因となり、最期は心臓発作でこの世を去りました。享年67歳でした。

オットリーノ・レスピーギの妻

オットリーノ・レスピーギは1919年に、15歳年下の弟子と結婚しました。

彼女はエルザ・オリヴィエーリ・サンジャコモ(1894-1996)といい、1914年から1918年の4年間、サンタ・チェチーリア音楽院に在籍していました。
在学中は歌と作曲を学び、卒業後は歌手として演奏活動していた他、オペラ、声楽曲、室内楽曲なども作曲し、女流作曲家としても名を馳せました。

夫レスピーギが自身の突然の死によって完成させることができなかったオペラ「ルクレツィア」も夫人が書き上げ、出版しています。

まとめ

オットリーノ・レスピーギは67年間という比較的短い生涯の中で、弦楽奏者として、ピアニストとして、指揮者として、そして作曲家として活動していました。

門下生の中でも優秀だったエルザを妻に娶り、音楽家夫婦としては非常に満ち足りた人生を歩んでいたことでしょう。
エルザ夫人が101歳まで生きられたことを考えても、レスピーギがあと10年作曲活動を続けられたのであれば、夫人とのユニークな共作も生まれたのかもしれません。

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