やっぱりー

司馬遼太郎ってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]「明治」という国家[新装版] (NHKブックス No.1249)

司馬遼太郎は日本の有名な小説家、評論家で、特に歴史小説が有名です。数多くの作品を世に出し陳舜臣、中西進、松下幸之助など多くの著名人との対談も行いました。今回は司馬遼太郎の生涯や性格をあらわすエピソードをご紹介します。

司馬遼太郎の生涯

司馬遼太郎は72歳で亡くなりましたが、その生涯は少年時代からの読書好きやのちの司馬史観を形作った戦争体験などがありました。ここでは司馬遼太郎の生涯を追っていきます。

誕生から学生時代

司馬遼太郎は、本名福田定一といい、1923年(大正12年)に大阪府大阪市で生まれました。父は薬局を経営しており、乳児脚気だった司馬遼太郎は3歳まで母の実家の現奈良県葛城市に里子に出されていました。

1930年には大阪市難波塩草尋常小学校に入学します。性格は明るく、大陸の馬賊に憧れていたそうです。中学生になると井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受けたことがきっかけで本に目覚め、乱読の日々を過ごしたと言われています。

1942年に現在の大阪外国語学校の蒙古語学科に入学します。語学は嫌いだったそうですが、読書は好きで、ロシア文学や司馬遷の『史記』を愛読していました。

戦時中の司馬遼太郎

1943年、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業し兵庫県加東郡河合村青野ヶ原の戦車第十九連隊に入隊します。軍隊内ではかなり珍しい「俳句の会」を興したそうです。翌年には、満州四平の四平陸軍戦車学校に入校しました。司馬遼太郎は機械に弱く、軍隊生活にもなかなか馴染めず、動作も遅れがちでしたが、冗談を言ったり、笑顔で同期生たちの癒しになっていたそうです。

戦車学校にて成績が悪かったためにそのまま大陸に配属になり、これが生死を分けることにもつながりました。1945年には本土決戦のために新潟県から栃木県に移り、終戦を迎えました。敗戦にショックを受けた司馬遼太郎は「くだらない戦争」「くだらないことをしてきた国に生まれた」「昔の日本人はもう少しマシだったのではないか」と考え込み、これが彼の日本史に対する関心の原点となったといいます。このとき司馬遼太郎は23歳。のちに書いた歴史小説は、この時の自分に書き送るようにして書かれたものだといいます。

記者から小説家へ

復員後、生野区にある在日朝鮮人経営の新世界新聞社に入社し、1946年には新日本新聞京都本社に入社しますが、2年後に倒産してしまいます。程なくして産経新聞社に入社し福井地震や金閣寺放火事件の取材などを行いました。1950年に最初の結婚をし長男が生まれたものの離婚します。

1955年には本名で『名言随筆・サラリーマン』を発表し、翌年に司馬遼太郎の名で応募した「ペルシャの幻術師」が講談倶楽部賞を受賞し、出世作となります。その後も『近代説話』や『小説倶楽部』などに作品を発表し続け1958年には司馬遼太郎として初めての著書『白い歓喜天』が出版され、のち『梟の城』に改題された「梟のいる都城」の連載もスタートしました。1959年には産経新聞記者の松見みどりと再婚しています。

小説家時代

1962年から『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』を連載し歴史小説家として旺盛な活動を本格化します。この頃から作中で随筆風に折込解説する手法も完成していきました。1964年には終の住処となる現・東大阪市に転居しました。

1970年代は、紀行文『街道をゆく』、明治時代を舞台にした『坂の上の雲』、幕末の『世に棲む日日』などを発表し、国民的作家と呼ばれるようになっていきます。また「司馬史観」という言葉も出現し、歴史を俯瞰して一つの物語としてみる歴史観とされました。1980年代に中国の清朝興隆の頃が題材の『韃靼疾風記」を最後に小説の執筆を終わりますが「街道をゆく」やエッセイ『風塵抄』『この国のかたち』の連載は続きました。

1981年に日本芸術院会員、1991年に文化功労者、1993年に文化勲章を受賞し、台湾紀行の取材の折に、当時の台湾総統だった李登輝と会談したり、青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続けました。

1996年2月10日に倒れ、病院に運ばれるも、2日後の2月12日に腹部大動脈瘤破裂のために死去します。死後は親族や関係者での密葬ののち「司馬遼太郎さんを送る会」が行われ、政府からは従三位を追賜されたほか、翌年には司馬遼太郎賞が創設され、2001年には東大阪市の自宅の隣に司馬遼太郎記念館が開館しました。

司馬遼太郎の性格を物語るエピソード

司馬遼太郎には多くのエピソードが残っていますが、その中でも人柄のわかるものをご紹介します。

司馬遼太郎の名前の由来

司馬遼太郎は本名は福田定一と言います。なぜ司馬遼太郎なのかというと中国の歴史家「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者という意味で、日本といえば「太郎」だからとのことです。

中学3年生の時のエピソード

司馬遼太郎が中学3年生の時、読書に目覚め乱読の日々が始まります。松坂屋横の御蔵跡町の図書館ではあらゆる分野の本を読み、阿倍野のデパートでは吉川英治の宮本武蔵全集を立ち読みで読破したそう。頭にきた売り場の店主が「うちは図書館やあらへん!」と文句を言うと「そのうちここらの本をぎょうさん買うたりますから」と言ったそうです。学校は嫌いで、図書館と本があればいいという少年だったと言います。

人気者だった学生生活

旧制大阪外国語学校時代、下駄ばきで登校した司馬遼太郎は「オース、オース」と教室に入り、人が集まる中心にいたそうで、授業でもよく発言をするタイプでした。食事はよく食べ朝飯を5杯おかわりしたそうです。

資料集めの逸話

司馬遼太郎の資料集めは凄まじかったと言われ、一度に何千万単位で買い集めるので、関連する古書が業界からなくなったほどだったといいます。軽トラックで古書店にいき、手当たり次第に乱読購入していったそうです。

まとめ

いかがでしたか?司馬遼太郎の凄まじい資料集めや執念が大作を生み出したこと、それには学生時代の戦争体験が大きく影響していることなどがわかりました。またユニークで活発な人柄にも親しみが持てますね。歴史に詳しくなくても読める作品も多いので、これを機会に読んでみてはいかがでしょうか。

👉[amazon]司馬遼太郎の本はこちら。

>>司馬遼太郎の作品の特徴及び評価。おすすめ代表作6選

モバイルバージョンを終了