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笹沢左保の作品を読んだことがありますか?笹沢左保は戦後のミステリー小説界を牽引した人物であり、「岬シリーズ」や「夜明日出夫シリーズ」など、数々の名作を残した作家です。また歴史小説や股旅物も多く執筆しており、代表作「木枯し紋次郎」は一大ブームを巻き起こしました。40年あまりの長きにわたる作家生活で、およそ380作品という膨大な数の作品を世に出した笹沢左保とはどのような人物なのでしょうか。今回は笹沢左保の人生を紹介します。
笹沢左保の生涯について
笹沢左保はどのような人生を歩んだのでしょうか。笹沢の小説好きは子供の頃から育まれていたようです。
誕生から作家デビューまで
笹沢左保は1930年、詩人笹沢美明の三男として東京の淀橋に生まれました。父・美明はドイツの詩人リルケの詩を日本に紹介した人物で、当時流行していた新即物主義の第一人者として有名な人物です。笹沢の祖父は貿易商を営む裕福な家柄でしたが、父・美明が財産を使い果たしてしまったため、貧しい少年時代を送ったそうです。
少年の頃から探偵小説に夢中になった笹沢は、15歳で雑誌の懸賞小説に応募するなど、早くから文才を発揮します。この時に応募した作品は「馬頭のナイフ」という作品でした。中学卒業後は関東学院高校に入学しますが、家出を繰り返し高校を中退します(卒業したとの説もあります)。
18歳から脚本家の棚田吾郎に師事した笹沢は、台本の執筆を学びつつ、1952年から郵政省の簡易保険局に勤め始めます。さらに1957年からNHKの人気番組「私だけが知っている」の脚本を任されるようになり、笹沢は本格的に作家の道を志すようになりました(夏樹静子もこの番組の脚本を担当しています)。
1958年、笹沢佐保名義で応募した短編小説「闇の中の伝言」が、雑誌「宝石」で佳作を獲得したことを皮切りに、2年後の1960年に発表した「招かれざる客」が江戸川乱歩賞の次席となったことで笹沢は作家デビューを果たします。デビュー後はペンネームを「佐保」から「左保」に変更していますが、「左保」とは夫人の名前「佐保子」から取ったものだそうです。
新本格派のホープとなる
作家デビューした笹沢は、「霧に溶ける」「結婚って何さ」「人喰い」など次々と作品を発表し、「人喰い」で日本探偵作家クラブ賞を受賞したことで専業作家としての活動をスタートします。専業作家に転身後も「断崖にて」や「空白の起点」、「穴」などの本格ミステリーを多数執筆し、やがて笹沢は「新本格派のホープ」とまで呼ばれるようになりました。
1960年代の笹沢は、探偵小説から現代小説への移行期だったようで、少年少女の虚無的愛をテーマとした「六本木心中」が当時の世相を反映する作品として話題となりました。この「六本木心中」は直木賞確実とまで言われましたが、その夢は叶いませんでした。
木枯し紋次郎が大ヒット
さまざまなジャンルにミステリー的要素を取り入れた笹沢の作風は、時代物でも活かされます。1970年代になると笹沢は歴史小説などの「時代物」も手がけるようになり、1971年に発表した「木枯らし紋次郎」が空前の大ヒットとなったことで、笹沢の名声は広く一般にも知られるようになりました。俳優・中村敦夫が主演を務めたテレビドラマ版「木枯し紋次郎」は視聴率30%超えを記録し、紋次郎の決め台詞「あっしには、かかわりのないことでござんす」は当時の流行語に選ばれています。
「木枯し紋次郎」で成功を収めた笹沢は、それ以降も「宮本武蔵」や「真田十勇士」、「夢と承知で」などの時代物を執筆し、本格ミステリーと並行したライフワークとなりました。
晩年
1990年代になると、笹沢は紋次郎の出生地に似ているとされる佐賀県の三日月村へ移住し、執筆活動に専念します。笹沢はこの地を大変気に入ったようで、100以上もの作品が佐賀の地で執筆されています。また、1993年から発足した「九州さが大衆文学賞」の設立にも携わり、笹沢は若い作家の育成にも尽力しました(同賞は2017年第24回で終了)。
2001年に佐賀から東京都小平市に戻った笹沢は、翌年2002年に肝細胞癌のためにこの世を去りました。享年71歳でした。生前から親交のあった森村誠一は、自身のウェブサイトで「笹沢左保特集」を公開しています。また、笹沢を慕っていた有栖川有栖も追悼文を寄稿しています。
笹沢左保にまつわるエピソードは?
笹沢左保のエピソードについて紹介します。あまりの人気ぶりに寝る暇もなかった時期があったようです。
想像を絶する執筆力
全盛期の笹沢への執筆依頼は凄まじいものだったようで、愛人との待ち合わせをすっぽかしてまで原稿に集中していたと言われています。多い時には、月に400字詰め原稿用紙にして1000枚〜1500枚を執筆したそうです。今のようにパソコンなどがなかったことを考えると、笹沢がいかに驚異的な集中力と発想力の持ち主だったかがわかりますね。
執筆中に眠らないようにたったまま原稿を書いた?
人気作家として多忙な日々を送った笹沢は、執筆活動に忙殺されていました。あまりにも仕事が忙しかったため、寝る暇も惜しんで作品を執筆し、時には執筆中に眠らないように「立ったまま原稿を書いた」という伝説が残っています。私生活では自由奔放に生きた笹沢でしたが、作品に対する真摯さが伝わるエピソードです。
まとめ
今回は笹沢左保の生涯について解説しました。本格ミステリーから歴史小説、股旅物など笹沢の執筆ジャンルは幅広く、どの分野でも笹沢ワールドが炸裂しています。近年では、ミステリー作家の有栖川有栖(ありすがわ・ありす)の推薦で再版もされていますので、目にしたことがある方もいると思います。まだ一度も読んだことのない方は、この記事を機会に笹沢の世界に触れてみてはいかがでしょうか。