出典:[amazon]決定版 森鴎外全集 日本文学名作全集
夏目漱石と共に日本近代文学の巨塔と称される作家・森鴎外。「山椒大夫」や「舞姫」など、一度は読んだことがある方も多いのではないでしょうか。膨大な作品や翻訳をこなすかたわら、鴎外は軍医としてもその才能を発揮し、日清・日露戦争での活躍により40代で陸軍軍医総監の地位にまで上り詰めました。そんな規格外の才能を発揮した森鴎外とはどのような人物だったのでしょうか。今回は森鴎外の人生について解説します。
森鴎外の生涯について
森鴎外の生涯を解説します。作家として多産だった鴎外ですが、それと同じくらい軍医としても活躍しました。晩年には帝国美術院(現・日本美術院)の初代会長に任命されるほど美術にも通じていたようですよ。
11歳で医学部に入学した天才少年
森鴎外(本名:森林太郎)は、1862年(文久2)、石見国に生まれました。石見国(いわみのくに)とは現在の島根県です。鴎外の家系は代々藩に使える典医をしており、鴎外は跡取りとして大切に育てられました。幼少の頃から「論語」、「孟子(もうし)」、オランダ語を学ぶなど、とても勉強熱心な少年だったそうです。あまりにも優秀だったため、9歳の時に15歳の学生と同等の学力と言われていました。
10歳で父と上京した鴎外は、ドイツ語を習得するために私塾に入り、さらに学問を続けます。1873年、志望していた第一大学医学部(現・東大医学部)になんと満11歳という若さで入学します(本来は14歳で入学許可が降りましたが、鴎外は年齢をサバ読んで入学しました)。在学中は漢方医書や文学、和歌などを作って過ごしていたそうです。
大学卒業後(鴎外満18歳)、実家で父の病院を手伝いながら悶々として日々を送ります。しかしある日、鴎外の生活を見かねた友人の助けで陸軍軍医副となり、ドイツへ留学することになります(ドイツ留学は鴎外の夢でした)。
念願のドイツ留学へ
念願のドイツ留学を果たした鴎外は「日本兵食論」などを発表し、研究に専念します。またドイツではライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンに滞在し、「細菌学」や「衛生学」の研究に携わります。この時、鴎外は細菌学の世界的権威コッホに師事し当時の最先端の医学を学びます。また医学だけではなく、シラーやゲーテ、カントやショーペンハウアーなどの文学や哲学にも大きく影響を受けます。
ベルリン滞在中は医学者の北里柴三郎と知己となり、日本に帰国してからも交流が続きました。そしておよそ4年間のドイツ生活を終えた鴎外は、1888年日本に帰国。翌年から軍医と作家の2足のわらじ生活が始まります。ちなみにドイツで細菌学を学んだ鴎外は、極度の潔癖症になってしまいました。顕微鏡から覗く世界があまりにも衝撃的だったのかもしれませんね。
作家・森鴎外の誕生
帰国した翌年の1889年から文芸評論や訳詩集「於母影(おもかげ)」を発表したことで、鴎外は早くから注目を集めます。そして「於母影」の原稿料で手にした50円を元手に雑誌「しがらみ草紙」を創刊し、文壇に積極的に参加します(「しがらみ草紙」は日本で最初の文芸雑誌だそうです)。「舞姫」、「うたかたの記」、「文づかい」などが発表されたのもこの頃で、鴎外は次々と作品を発表して人気作家として認められるようになります。
また、ドイツ生活で培った語学力を活かした鴎外は、ゲーテの「ファウスト」やアンデルセンの「即興詩人」などの翻訳を発表し、海外作品の紹介も積極的に行います。当時の日本には外国作品が少なかったことを考えると、鴎外の翻訳はとても重宝されていたことでしょう。
2度の戦争へ
日清・日露戦争に軍医として従軍した森鴎外。鴎外は両戦争での働きが認められ、1907年に軍医のトップである陸軍軍医総監に任命されています。日清戦争後は台湾に4ヶ月ほど滞在しており、帰国後は幸田露伴や斎藤緑雨とともに雑誌「卍(まんじ)」を創刊。当時の文壇をリードしました。また、1895年には正岡子規も鴎外を訪ねたそうで、後に正岡子規派の俳人とも交流するようになります。
1902年には18歳年下の荒木志げと再婚して4人の子宝に恵まれました。「父の帽子」、「恋人たちの森」などの作品を発表した次女の森茉莉は、明治時代には珍しかった女流作家として活躍しています。日露戦争から帰った鴎外は、軍医総監を務めると同時に美術審査員も命じられ、第1回文部省美術展覧会の主任も務めています。そして1909年に雑誌「スバル」を創刊した鴎外は、「ヰタ・セクスアリス」、「青年」などの代表作を多く発表し作家人生のピークを迎えます。
晩年
作家・軍医として大活躍だった鴎外は、1910年、慶應大学の文科顧問に就任します。この時、鴎外の一因で教授に迎え入れられたのが、作家・永井荷風です(夏目漱石にも同様の話があったようですが辞退しています)。
1916年、8年間務めた陸軍軍医総監を退官した鴎外は、その後帝国美術院(現・日本芸術院)の初代会長を務め、日本の芸術発展のために尽力しました。そして1922年7月9日、友人たちが見守る中、腎萎縮と肺結核のためこの世を去りました。享年60歳でした。現代の感覚では短い生涯のように思いますが、当時の平均寿命が43歳だったことを考えると、意外と長生きだったのかもしれません。
森鴎外のエピソード
森鴎外のエピソードを紹介します。ただものではない天才ならではのエピソードかもしれません。
軍人と作家の自分を使い分けていた
ある日、作家仲間が軍服姿の鴎外に何気なく声をかけました。しかし、鴎外はその友人を怒鳴りつけたそうです。怒鳴られた友人はさぞかし怖かったでしょう。鴎外は軍医総監として公人でもあったので、公人としての立ち居振る舞いをすることで厳しく自分を律していたのかもしれません。
極度の潔癖症だった鴎外
ドイツ留学によって、先端の細菌学を学んだ鴎外。しかしそれがきっかけで極度の潔癖症になってしまいました。それ以降、生の果物などは決して口にしなかったと言われています。また「細菌の温床である」としてお風呂に入るのも嫌い、1日に2度手拭いで体を拭くのが日課だったそうです。
鴎外の好物がすごい!
鴎外は酒を飲まない代わりに大の甘党だったそうで、あんぱんや焼き芋が好物というスイーツ男子でした。極め付けは「饅頭の茶漬け」というレシピを編み出した事です。これは、ご飯の上に饅頭を乗せてお茶をかけるというとんでもないレシピですが、ご興味のある方は試してみてください。
まとめ
今回は森鴎外の生涯を解説しました。まだまだお伝えしたい話がたくさんありますが、鴎外の人並外れた才能が伝わったでしょうか。作家として成功するだけでも難しいにもかかわらず、軍医の最高位にまで上り詰める鴎外の能力には脱帽しかありません。その生涯を見てみると、とことん誠実な人物だったのだなと思います。この記事をきっかけに、鴎外の作品を改めて読んで頂ければ幸いです。