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広津和郎ってどんな人?その生涯は?性格を物語る逸話や死因は?

出典:[amazon]作家の自伝 (65) (シリーズ・人間図書館)

広津和郎は多くの文豪の中ではあまりその名を知られていません。「ひろつかずお」と読みます。学生時代、彼の作品に出会う方はほぼいないでしょう。

しかし広津和郎は小説家としてだけでなく評論家、翻訳家など、文芸の世界で幅広く活躍しました。また、「冤罪」という言葉を日本に広めたとある鉄道事件にも大きく関わっています。

「散文精神」「散文芸術」という言葉をモットーに掲げ、人間の感情や人生のすぐ傍らに寄り添う小説を目指した人でもありました。今回はそんな広津和郎の生涯と性格を物語るエピソードなどをご紹介します。

広津和郎の生涯

まずは広津和郎の人生についてみていきましょう。

広津和郎の誕生から学生時代

広津和郎の父親は小説家の広津柳浪(ひろつりゅうろう)です。尾崎紅葉が中心となって立ち上げた文学結社、硯友社の一員でした。広津柳浪はあの永井荷風が弟子入りを志願したほど有名な作家です。広津和郎の文学の才能は父親譲りですね。

広津和郎には2歳離れた兄がいましたが、兄には勝気でやんちゃすぎる一面があり、よく父親に怒られていたようです。それを見て育った広津和郎は自然と自分が良い子にならなくては、大人にならなくてはと考えていたといいます。

広津和郎が小学校に入学して間もなく、実母が亡くなります。父親の柳浪は後妻をめとり、広津和郎自身と新しい母親の仲は良好でしたが、兄と義母は不仲でした。広津和郎は二人の仲裁や父親への助言もしていたようです。家族間で板挟みになり苦労の多い少年時代でした。

広津和郎は麻布中学から早稲田大学の文科予科に進み、そのまま早稲田大学英文科へと進学しました。中学時代は病気がちな一面もありましたが、大きくなるにつれ文学的な才能を開花させていきます。学生時代には雑誌への投書で何度も賞金を稼ぎました。

早稲田大学時代には友人たちと同人誌を作成し、そこを足がかりに小説や翻訳を発表していました。実はその頃父親の柳浪が作品の執筆をしなくなり、電気も止められ、果ては家を追い出されるような極貧生活に追いやられていたのです。小説や翻訳の発表は原稿料で少しでも生活費を稼ぐためでした。

しかし、極貧生活の中でも一切言い訳をせず大物作家らしい悠然とした態度を貫いた父親を広津和郎は尊敬し、評価していたようです。生活のために広津和郎が翻訳したモーパッサンの「女の一生」の大ヒットで一家は救われました。

このように、広津和郎は賢く視野が広く、また身近な人へ常に愛情深いまなざしを向ける少年でした。これは広津和郎の作品すべての根底に流れている空気であるとも言えるでしょう。

多彩な女性遍歴と交友関係、散文精神

広津和郎が文学的にまず評価されたのは小説ではなく評論の分野でした。雑誌で評論を執筆するようになったのも生活費のため、というのですから、つくづく食べるため、家族を養うために必死に筆をとった作家です。1917年に発表した「怒れるトルストイ」は大正時代の評論の名作として今でも知られています。あわせて少しずつ小説も書き始めました。さまざまなジャンルの作品を書いていますが、私小説的な作品が最も売れました。

この前後に広津和郎は最初の結婚をしています。神山ふく、という女性が相手でした。彼女とは一男一女をもうけています。ただ、やはり同時期に仲良くなった文壇の仲間たちと当時流行したカフェーなどに出入りするようになり、この後同棲や駆け落ちを繰り返すようになります。神山ふくとはしばらくして別居し、子どもたちはふくが引き取りましたが、交流はありました。

女性遍歴の果てに、広津和郎は松沢はま、という女性と夫婦のような関係になります。しかし生涯戸籍上の妻は神山ふくであり、松沢はまは内縁の妻のままでした。

女性関係が落ち着いてきた頃、広津和郎は「散文精神」「散文芸術」という言葉を提唱したり講演で使うようになります。「散文精神」という言葉自体は当時文学の世界で流行していた言葉ですが、根付かせたのは広津和郎だと言っても良いでしょう。

当時は太平洋戦争直前の時期で、決して明るい世相ではありませんでした。その中で広津和郎は「みだりに悲観もせず、楽観もせず、行き通して行く精神」として「散文精神」を掲げたのです。人々の人生に寄り添う文学としての意味合いもありました。

松川事件への関心、そして晩年

戦後、広津和郎を最も有名にしたのは「松川事件」であると言えるでしょう。「松川事件」とは1949年に起こった鉄道事件です。松川駅の近くで列車が転覆したのですが、調査の結果線路などに細工が見つかり、「自己を起こした犯人がいる」と大騒ぎになりました。

警察の取り調べで20人にものぼる被告が裁判にかけられ、一審では死刑を宣告されたものもいました。しかし、この一審により広津和郎は裁判の方法や法の在り方などに疑問を持つようになります。

「素人」「とんだ物笑い」と笑われ、マスコミや裁判所から糾弾されながらも広津和郎は独自に松川事件についての調査を続けました。そして諦めず裁判への疑問や批判を文芸誌に書き続けました。

最終的に松川事件は「被告全員無罪」という結末になります。真犯人はわかりませんが、「冤罪事件であった」と証明されたのです。事件を世間に広める上で広津和郎の功績は大きかったと言えるでしょう。

広津和郎の性格を物語るエピソード

広津和郎は家族を支えるために筆を持ち、松川事件では自分の信じる正義のために最後まで戦い続ける優しく聡明で粘り強い人物でした。しかしその反面、ふとした瞬間に女性と関係を持ってしまい、その後酷く後悔するような衝動的な一面も見られました。

このアンバランスさが広津和郎の魅力の一つでもあり、また人生に寄り添う「散文精神」を掲げ続けた一因でもあったのでしょう。

まとめ

広津和郎のその生涯や性格はいかがだったでしょうか?広津和郎の生き方を見ていると、決して平坦ではない人生を、地に足をつけて生き抜いて行こうとする気概や、正しいことのために動こうとする勇気を感じられます。

これを機に、評論、翻訳、小説と多彩な文章を発表している広津和郎の作品を読んでみてはいかがでしょうか?

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