出典:[amazon]決定版 宮沢賢治 全集 日本文学名作全集
「銀河鉄道の夜」や「注文の多い料理店」などで知られる宮沢賢治。賢治の作品は、日本人であれば誰しも一度は触れたことがあると思います。今でこそ宮沢賢治の作品は多くの人々に愛されていますが、賢治の存命中はあまり注目されなかったと聞いたら、驚く方もいらっしゃるかもしれません。どの作品も穏やかで優しい印象を受ける宮沢賢治ですが、その生涯はどのようなものだったのでしょうか。今回は宮沢賢治の生涯についてご紹介します。
宮沢賢治の生涯について
宮沢賢治は1896年(明治29)、宮城県花巻川口町(現・花巻市)に生まれました。父・政次郎は質屋や古着商店を営んでおり、裕福な家庭に育ちました。幼いころから叔母が唱えるお経を聞き、3歳には暗唱していたそうです。そして仏教的ものの見方は、賢治の生涯に大きな影響を与えることとなります。
学生時代の賢治はとても優秀で活発な少年だったようで、鉱物採集や昆虫採集に熱中していました。また、学校の先生が読み聞かせた「家なき子」(当時のタイトルは「未だ見ぬ親」)や「海の水はなぜ辛い」などに感銘を受け、生涯忘れなかったと言われています。家業を継いでほしかった祖父の反対を押し切り、賢治は1909年(明治42)高校に入学します。この頃から文学に関心を持ち、石川啄木の影響で短歌を始めています。
高校卒業後は、家業の店番や養蚕(ようさん)の手伝いをしていた賢治ですが、つまらない毎日が続き鬱々とした毎日を送っていたそうです。この様子を見かねた父・政次郎は賢治に盛岡高等農業学校(現・岩手大学農学部)への進学を勧め、賢治は猛勉強の末、首席で入学します。農業学校で勉強する一方で、文学への関心は衰えることなく、友人とともに「アザリア」という雑誌を刊行し作品を発表するようになります。農学校卒業後も、研修生としてさらに農業の研究を進めました。
1918年(大7)、東京に進学していた妹・トシが入院したことで上京し、翌年まで妹の看病を続けます。この上京の際、国柱会(こくちゅうかい)の田中智学(ちがく)の講演に大きな感銘を受け、のちに国柱会に入信します。トシの回復とともに花巻に戻った賢治は、1920年(大10)、農学校を卒業し再び家業を手伝うことになりました。
そんな生活にまたも嫌気がさした賢治は、翌1921年(大11)東京に家出し、国柱会館を訪ねるものの受け入れてもらえず、父の知人の元に身を寄せて生活していたそうです。この頃の賢治は「法華文学」に傾倒し、1ヶ月に3000枚の原稿を書いたと言われています。しかし同年8月、花巻から妹・トシが病気になったとの連絡があり、賢治は実家に戻りましたが、程なくしてトシは結核で亡くなってしまいました。このときの心情を書いたのが「永訣の朝」です。
花巻に戻った賢治は、農学校の教諭となりそれと同時に執筆活動を本格化させます。1922年(大12)に「雪渡り」を発表し5円の原稿料を手にしますが、これは賢治が手にした最初で最後の原稿料でした。その後も「心象スケッチ 春と修羅」や「注文の多い料理店」などの作品を、ほぼ自費出版しましたがほとんど売れず、作品が世間に認められることはありませんでした。
1926年(大15)、農学校を退職した賢治は30歳で「羅須知人協会(らすちじんきょうかい)」を設立し農業を始めます。この協会では、地元農民に肥料の講演をしたり、農民コンサートのための楽団を設立していたそうです。賢治はチェロに熱中し、熱心に練習したと言われています。羅須知人協会を設立した2年後の1928年(昭和3)、賢治は肥料相談や稲作指導中に高熱で倒れ、両側肺湿潤のため病臥生活を余儀なくされます。療養の甲斐もあり一度は回復したものの、1931年(昭和6)、再び倒れてしまい床に伏すことになってしまいました。病で体が思うように動かなかった賢治でしたが、可能な限り近隣農民の相談に親身に対応し、最後まで農業指導を続けました。病状を押して農業指導の生活を続けた賢治でしたが、1933年9月21日、突然喀血(かっけつ)し、その日に静かに永眠しました。葬儀には2000人もの人々が訪れ、賢治の死を悼みました。
性格を物語るエピソードは?
・子供の頃から勉強ができた宮沢賢治は、鉱物収集や昆虫標本に熱中していたそうです。あまりにも熱心だったため、周りから「石コ賢さん」のあだ名で呼ばれていました。
・文学の他に、音楽にも精通していた宮沢賢治は大量のレコードを所有していました。暇を見つけてはレコード店に行き、新作を物色していたと言われています。なかでもベートーヴェンやドヴォルザークがお気に入りだったようです。
・晩年は菜食主義を貫いた宮沢賢治は、主にご飯や野菜、油揚げやトマトを主食にしていたそうです。ある日賢治が肺炎に罹ったとき、母・イチが「鯉の肝」を薬と偽り飲ませたところ、「生き物の命をとるくらいならオレは死んだ方がよい」と激怒したと伝えられています。
死因について
もともと肺を患っていた賢治は、次第にその症状が深刻になって行きます。それでも近所の農民の肥料相談に熱心に対応し、最後まで周囲の人々に尽くしました。1933年9月、地元の祭りを見た後に急性肺炎で喀血(かっけつ)しそのまま帰らぬ人となりました。享年37歳という若さでした。亡くなる際の遺言として、「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」と最後まで法華経の教えを貫いていました。
これについては、対立することの多かった父も「おまえもなかなかえらい」と褒めたと伝えられています。
まとめ
今回は宮沢賢治の生涯についてご紹介しました。若い頃の宮沢賢治が、仏教(とくに法華経)に熱心だったというのは意外な発見だと思います。そして賢治の根底にある思想「みんなが幸せになるにはどうしたら良いか」というのも、仏教の影響があったのかもしれません。今回の記事をきっかけに、以前読んだ賢治の作品をもう一度読み直すと新たな発見があるかもしれませんよ。