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中島敦ってどんな人?その生涯は?家族や死因、人柄のわかる逸話は?

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中島敦という作家をご存知ですか?中島敦は高校の教科書に載っている「山月記」の作者でもあり、知っている方も多いかもしれません。中島は明治の終わり~昭和初期を生き、33歳という若さで亡くなりました。漢文学者の家系に生まれ、美しい漢文調と短くも品格のある小説が特徴です。
この記事では、中島敦の短い生涯や家族、逸話などについてご紹介します。

中島敦の生涯

中島敦はどのような人生を歩んだのでしょうか?中島敦の生涯をご紹介します。

誕生から大学入学前まで

中島敦は、1909年(明治42年)現在の東京都新宿区で生まれました。父・中島田人は漢学の教師であり、母チヨは元教員でした。しかし敦が1歳のときに両親が離婚し、父に引き取られ埼玉県久喜市で祖母や伯母たちに育てられました。儒学者である祖父は幼少時に亡くなっていたものの、伯父たちは学者の中島斗南や中島たかしであり、幼い敦も儒学や漢学の影響をうけて育ちました。

中島敦が5歳のときに父が紺家カツと再婚してのち奈良県郡山で暮らし、11歳の頃に日本の植民地であった朝鮮総督府・京城府龍山公立尋常小学校へと通います。東京へ戻り、第一高等学校へ進学しますが、夏休みの帰省中に大連で肋膜炎にかかり1年休学し、療養生活中に「病気になった時のこと」を書きます。その後『校友会雑誌』に「下田の女」が掲載され、これが中島敦の世に出たはじめての作品となりました。

1928年には伯父の知り合いの縁で田中西二郎と知り合い、『校友会雑誌』に「ある生活」「喧嘩」が掲載されます。さらに翌年には、文芸部医院『校友会雑誌』編集に参加し、氷上英廣、吉田精一、釘本久春らとともに季刊同人誌『しむぽしおん』を作りますが、不思議なことに中島は一度も執筆はしなかったといいます。

東京帝国大学入学から女学校教員時代まで

1930年に東京帝国大学文学部に入学した中島は、英国大使館駐在員の日本語教師をしながらも、ダンスホールや麻雀荘に入り浸る生活をしていました。麻雀荘にてのちに妻になる橋本タカと知り合います。
一方で読書にも熱中し、永井荷風、谷崎潤一郎、正岡子規、森鴎外、ボードレール、ワイルドなどを読破しました。卒業論文では「耽美派の研究」を執筆し、欧州の耽美派を外観しつつ谷崎潤一郎を論じました。就職には苦労したようですが、1933年横浜高等女学校の教員に就任し、12月にはタカと結婚します。

教師時代には「斗南先生」「北方行」などを執筆し、「虎狩」を『中央公論』新人号に応募します。1935年頃には、ガーネットや荘子、ラフカディオハーン、ゲーテなどを読み、「狼疾記」「かめれおん日記」を完成させます。また小笠原諸島や中国を旅行した際には、旅日記的な和歌や感想を31文字で書き「和歌でない歌」として綴ります。1940年代に入ると、アッシリアや古代エジプト、プラトンなどを勉強し 「文字鍋」「木乃伊」「山月記」などを含む「古潭」を発表しました。

持病の悪化からパラオ行き、そして晩年

持病の喘息が悪化したため、釘本のすすめにより1941年に常夏のパラオ南洋庁へ出航します。パラオコロール庁へ赴任した中島は、南洋庁の編修書記や現地の教科書作成業務を行い「環礁ーミクロネシア巡島記抄」「南島譚」を執筆します。しかしアメーバ赤痢やデング熱にもみまわれ勤務が難しいだけでなく、雨の多いパラオではかえって喘息がひどくなってしまいました。また現地の島民と接するうちに、自分の仕事に疑問をもってしまい帰国を申し出ます。

1942年3月の帰国後も体調は思うようにならず、喘息と気管支カタルで父親と妻子の住む世田谷で療養します。療養しながら「光と風と夢」を完成させ『文學界』5月号に掲載。出版社から作品集出版が決まり、11月には『南島譚』が出版されました。しかし気管支喘息の悪化は止められず、服薬の影響で心臓も衰弱し入院。12月4日に33歳で死去しました。「書きたい、書きたい、俺の頭の中のものをみんな吐き出してしまいたい」と言ったのが最期の言葉だったと伝えられています。

没後は「李陵」が『文學界』に掲載され、『中島敦全集』が毎日出版文化賞を受賞するなど、文学的に高く評価されました。

家族・人柄のわかるエピソード

家族

中島敦の家族は学識者が多く、祖父の中島慶太郎(撫山)が儒学者亀田鵬斎の孫弟子であり、伯父の中島端(斗南)も「明倫館」創設に関わる人物でした。父も漢学の教員でしたが、母と離婚し再婚するなどの影響もあり、親子の折り合いはよくなかったといいます。父は敦には他人行儀な接し方でしたが、外では自慢の息子だと言ったり、敦の病没後は意気消沈したというエピソードが残っています。

妻のタカとは麻雀荘で出会い、中島が東京帝国大学在学中に婚約しますが、学生結婚を反対されたため、実家で長男を出産したのち、ようやく横浜で同居をはじめたそうです。

人柄のわかるエピソード

中島敦が横浜高等女学校の担任をしていたときのエピソードが残っています。
ラムネの瓶のような厚いメガネをかけ、長い髪を七三分けにし、前髪がメガネの前に垂れてくると頭を振って髪を跳ね上げる癖がありました。小柄で細身でしたが大きな声で礼儀正しく気遣いのできる人物で、「トンちゃん」と呼ばれており、生徒からも親しまれていたそうです。教え子にはのちの大女優原節子がいました。

まとめ

今回は中島敦の生涯をご紹介しました。33歳という若さでこの世を去った中島でしたが、日本国内や植民地を転々としたり、多くの書物を読むだけでなく、多趣味で行動派の一面もあり、さまざまな素養が作品に投影されていることがわかります。教科書の「山月記」の読み直しをしても違った魅力が味わえますし、気になる作品から読んでみてはいかがでしょうか?

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