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久米正雄ってどんな人?その生涯は?芥川龍之介との仲や性格を物語るエピソードは?

出典:[amazon]久米正雄伝 微苦笑の人

久米正雄という作家をご存知ですか?久米正雄は、芥川龍之介や菊池寛らとともに雑誌「新思潮」に参加した大正時代を代表する小説家です。文豪夏目漱石に認められ、漱石門下として「木曜会」にも参加しました。また久米正雄は若い頃から俳句の才能を発揮し、三汀(さんてい)という名前の俳人としても知られています。晩年は鎌倉に移住し鎌倉文士としても活躍した久米正雄とはどのような人物だったのでしょうか。今回は久米正雄の生涯をご紹介します。

久米正雄について

久米正雄はどのような人生を歩んだのでしょうか。作家・俳人として活躍した久米の生涯をご紹介します。

幼少期から作家になるまで

久米正雄は1891年(明治24年)、長野県の上田町(現上田市)に生まれました。父・由太郎は尋常小学校の校長を勤めていました。由太郎は明治31年、自信が校長を務めていた小学校で起きた火事の責任をとり、割腹自殺をするという壮絶な人生を歩んでいます。この「父の死」は、7歳だった当時の久米の心に暗い影を残すことになります。父の死後、母方の実家を頼り、福島県安積郡(現郡山市)に移住します。

久米はとても優秀だったようで、中学時代にすでに「笹鳴吟社」(ささなりぎんしゃ)という俳句の会を結成し、その後、正岡子規の影響を受けて新俳句会に入りました。久米は早くから俳句の才能を認められ、高校時代には日本派俳人として知られるようになりました。

高校卒業後、東京帝国大学英文科(現東京大学)に入学し、在学中に書いた戯曲「牛乳屋の兄弟」が好評となります。またこの頃に芥川龍之介や菊池寛と出会い、雑誌「新思潮」を発表するなど交友を深めるようになります。大学卒業後に発表した「父の死」や「銀貨」といった作品が評判となり、一時期は菊池寛と人気を二分するまでになりました。

漱石の娘「筆子」とのスキャンダル後、失意にかられて実家に戻りますが、すぐに上京し菊池寛の勧めで再び作家として生活を始めます。そのときに書かれた「蛍草」が好評となり、通俗小説家として久米の名が世間に広がるようになりました。

1922年(大正11年)、筆子との失恋事件を元に書いた「破船」を連載し、この作品も世間から評判となります。翌年の1923年(大正12年)には、元芸妓の奥野艶子と結婚し、幸せな生活を送ります。1925年になると、当時多くの文学者が住んでいた鎌倉に移住し、亡くなるまで鎌倉で生活しました。

鎌倉へ移住してから2年後の1927年(昭和2年)、久米にとってショッキングな事件がおきます。芥川龍之介の自殺です。学生時代からの友人の死去に悲しんだ久米は、以降、執筆活動が衰えてしまったそうです。

鎌倉移住から晩年

1925年に鎌倉に移住して以降、久米は政治や文化活動に積極的に参加するようになります。1932年(昭和7年)、経済学者・石橋湛山(たんざん)の後任として鎌倉町議会選挙に出馬しトップ当選。1937(昭和12年)年になると、友人で作家の大佛次郎(おさらぎじろう)などと「鎌倉カーニバル」を企画し、地域を盛り上げる活動を行っています。「鎌倉カーニバル」は1962年まで続く大きなイベントとなりました。その8年後の1945年(昭和20年)には、同じく鎌倉に在住していた作家の川端康成とともに貸本屋「鎌倉文庫」を設立し、社長に就任しています。

鎌倉に移住後はさまざまな活動を行った久米ですが、1952年(昭和27年)、長年悩まされていた高血圧症が原因となり脳溢血(のういっけつ)のため、この世を去りました。享年60歳でした。

芥川龍之介との仲は?

東京帝国大学(現東京大学)で出会った芥川龍之介との仲は、芥川が自殺するまで続きました。芸術至上主義の芥川と大衆小説(通俗小説)も手がけた久米は、文学に対する考えかたの違いはあったものの、お互いに尊敬の念を持っていたようです。
芥川は自身のエッセイ「久米正雄氏の事」の中で、久米について次のように述べています。

(久米は)「実生活上の趣味でも田舎者らしいところはたくさんあります。(中略)色彩とか空気とかいうものは如何(いか)にも鮮明に、如何にも新鮮に描けています」
と評価しています。また、芥川が書いた「或(あ)る旧友に送る手紙」の旧友とは、久米正雄であるとされています。

大正5年には2人で千葉の一宮海岸を訪れて、滞在中のようすや文学論に関することを手紙にして夏目漱石に送るなど、私生活においても交友を深めました。

性格を物語るエピソードは?

久米正雄のもっとも有名なエピソードは、夏目漱石の娘「筆子」とのスキャンダルです。
漱石門下として漱石の家に出入りするようになった久米は、漱石の娘「筆子」に恋をします。筆子は当初、同じく漱石門下の松岡譲(ゆずる)に恋心をいただいていました。

久米は漱石の妻「鏡子」に筆子との結婚を願い、「筆子が同意するならば」ということで結婚を許可します。その後、久米についての怪文書が夏目家に送られるという事件が起こり、久米は筆子に迷惑になることを恐れて婚約の解消を申し出ます。しかし筆子は婚約解消を拒否し、久米は引くに引けなくなってしまいます。

漱石の妻・鏡子は筆子との結婚後は、久米に小説家としてでなく漱石作品の版権管理を任せたかったようですが、久米はこれを拒否。これにより久米は鏡子の怒りを買い、婚約は破棄となってしまいます。

これはとても有名なエピソードで、文学に人生をささげた久米の性格がよくわかるエピソードです。余談ですが、この事件が発端となり女性に振られることを指す言葉として「久米る」が流行したそうです。

まとめ

いかがでしたか?今回は久米正雄の生涯をご紹介しました。写真でみると物腰の柔らかそうな人物に見えますが、ときには大胆なことをする人物だったようです。学校の教科書で少し見かける作家だと思いますが、短編や俳句などを多く残しているので、ご興味があればぜひ作品を読んでみてはいかがでしょうか。

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