出典:[amazon]われらの時代に ヘミングウェー短編集1
アメリカ文学と聞いてみなさんが思い浮かべる作家はだれでしょうか。カポーティ?それともスティーブン・キング?彼らの作品はアメリカらしい、粗野でシンプルな表現に包まれた葛藤、哲学を感じさせるものが多いです。その中でもこうした特色が強くみられる優れた作家として、アーネスト・ヘミングウェイがあげられるでしょう。そのダンディズムと彼の戦いの記憶は、今もなお人々の心を波打たせる力を感じさせてくれます。今回は戦いとダンディズムの作家、アーネスト・ヘミングウェイについてご紹介します。
アーネスト・ヘミングウェイの生涯
ここでは、ヘミングウェイの送ってきた生涯についてご紹介しましょう。彼もほかの作家の例にもれず、幼少期や苛烈な経験を文学の中に取り込み、シンプルな文体の中に強固な哲学を以て描写しています。
幼少期
アーネスト・ミラー・ヘミングウェイが生まれたのは1899年7月21日、アメリカは中東部イリノイ州のオークパークでした。父と母、そして姉と4人の妹という家族構成です。父親はアーネスト少年に様々なことを教えました。自然の中で釣りや銃の扱いやボクシングを教わり、こうした描写はのちの作品に様々な形で登場します。しかし、母親は倒錯的な性癖を持っており、彼をよく女装させて過ごさせていたようです。親に女装させられたトラウマはアーネストに残ります。自身の身体、精神のアイデンティティに対する葛藤は女性関係や3度にわたる離婚歴など、決して浅からぬ影響を与えてしまいました。
高校に入学するとスポーツに熱中する活動的な少年ながらも、文学に関心を持つようになりました。ボクシングに始まり、フットボールやカヌーなど取り組みますが、チームスポーツにはあまり関心のない生徒だったようです。文学面では、学内新聞に寄稿したことから始まり、いくつかの作品や詩を書き始めました。このころからすでに簡潔でリズム感のある文体は持っており、少年らしい平民特有の言葉回しからなるストーリーの構成力には舌を巻かされます。
ジャーナリストから作家へ
高校卒業ののち、ヘミングウェイはカンザスシティで新聞記者見習いとして働き始めます。当時のカンザスシティでの経験はヘミングウェイにとって非常に刺激的だったようで、このころの生活をもとにした小説をいくつか出版しています。彼にとってこの街が抱える社会の暗部は大きな刺激を与え、彼の信条である「上達のために多くのものを書くこと」に則って長い記事を残してもいました。それでもその当時、ヘミングウェイの脳裏には従軍することへの強い情熱があったのです。
生まれつきあまり視力の良くなかったヘミングウェイは従軍への熱意を捨てきれず、イタリアにおける傷病者の運転手として戦場に赴くことになりました。戦地から離れていたことに退屈していたヘミングウェイは、兵士に対して嗜好品やコーヒーなどを支給する酒保要員として前線行きに志願します。そんな日々のある晩、オーストリア軍の迫撃砲によってヘミングウェイは重傷を負い、ミラノのアメリカ赤十字病院に運ばれます。この時に感じたショック、恐怖についてヘミングウェイは帰国してからも親しい間柄の友人にも語ろうとはしませんでした。この従軍体験の恐怖と療養中の体験は「武器よさらば」で生かされることになります。
恋多き人生に
従軍を終え、アメリカに戻ってきたヘミングウェイは定職に就かず、母親に実質的な勘当の手紙をもらっています。友人を頼ってシカゴに来たヘミングウェイはここで最初の妻、ハドリー・リチャードソンと知り合いました。当時21歳であったヘミングウェイに対して29歳であったハドリーは意気投合し、まもなく結婚します。パリに住まうことを決めたヘミングウェイは、アメリカ文学という新しい潮流を目の当たりにします。後に米文学史に名を残すエズラ・パウンド、ガートルード・スタインらと交流を持つのでした。当時の新進気鋭の知識人たちから刺激を受け、作家として本格的な出発を志すことになってゆきます。
パリで新聞社の記者として苦しい暮らしを送りながら、いくつかの短編を書き出版していたヘミングウェイは、スペイン旅行の中で闘牛を目の当たりにします。戦争の外では、戦いの姿を感じることができるのは闘牛士と牡牛の間のみだった、と残しています。闘牛に対する熱意がついえることはなく、「日はまた昇る」にてスペインの牛追い祭りを描くなど、インスピレーションを受けています。
このころハドリーのほかにポーリンという年上の女性にひかれたヘミングウェイは離婚を決意し、せめてもの義理としてハドリーと娘のために「日はまた昇る」の収入を残しました。離婚してすぐに故郷であるオークパークに戻り、父親に会います。すでに体を病み、精神的に疲労していた父の姿を見て、ショックを受けました。この訪問のすぐ後、父が銃によって自殺したことを知らされます。自分に様々なことを教えてくれた父を抑圧した母を、ヘミングウェイはどのように感じていたのでしょうか。
スペイン内戦が始まると従軍記者としてヘミングウェイは活躍します。ムッソリーニを取材し、スペイン共和国側と交流を持ちます。その体験の中で、スペインでの義勇兵が主人公となる「誰がために鐘は鳴る」を書き上げました。ヘミングウェイは戦間期にポーリンとも別れ、マーサという年下の小説家に恋し、3度目の結婚をするのでした。第二次世界大戦も従軍こそすれ、体を病んだヘミングウェイはあまり多くの記事を残しませんでした。
ノーベル賞作家・ヘミングウェイ
マーサと出会ったキューバで暫く過ごしたヘミングウェイは、これまた年若い少女に恋をしてしまいます。こうした体験と小説への意欲は「河を渡って木立の中へ」として世に出ることになります。
色恋が多いヘミングウェイですが、これ以降の作品にはそうした側面は鳴りを潜め、自身へのより深い探求を行ってゆきます。その結実ともいえるのが代表作、『老人と海』です。これまでと全く異なる孤独な老人を描いた作品は大きな反響を呼び、1954年には、ノーベル文学賞を受賞します。しかし周囲のマスコミや社会に対する評価に苦しみ、以降は満足のいく作品を仕上げることはできませんでした。こうした背景と自身のうつ病や肝臓病から、療養を余儀なくされたヘミングウェイは精神を病み、1961年に父と同じように自宅の猟銃で自殺してしまうのでした。
ヘミングウェイの作品たち
ヘミングウェイの作品は一貫して簡素ながら力強い描写力を持っています。そして作風は時期によって変化し、従軍体験を通して若者の感情や恋愛を描いたものから、そうした側面を排した孤独や自然への価値観を著したものまで多彩なテーマを持っています。有名なものは『日はまた昇る』『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』あたりですが、どれも彼の人生体験が色濃く反映された作品たちです。
ヘミングウェイは男らしく
ヘミングウェイはダンディズムの面でも評価される作家のひとりでもあります。例えば、ヘミングウェイが従軍を決意した理由の一つに、当時アメリカで流行っていた「心身ともに鍛え、精力的な暮らしを営む」というセオドア・ルーズヴェルトの言葉に共感したことがありました。それに加え母親との関係も大きく精神に影響を与えました。倒錯的な女装の強要、父を自殺に追いやる抑圧的な態度、自身を認めないで勘当する軋轢など、自身が認められない姿勢に強い拒絶があったことは疑いようがありません。その反動で、自身を強く見せようとしてしまう若き日のヘミングウェイは生まれたのです。
まとめ
今回はノーベル賞受賞作家アーネスト・ヘミングウェイをご紹介しました。たたき上げの天才作家であるヘミングウェイの文体は、非常に読みやすく想像力をくすぐるものが多いです。新聞記者らしい鋭い観察眼と、写実的な描写は、現代社会に生きる私たちにも気づかなかったものを見せるエネルギーを生み出しているのです。