やっぱりー

レフ・トルストイってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]トルストイ 聖書

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(1828-1910)は、ロシアを代表する偉大な文豪です。文学があまり得意ではないという方、文学はあまり嗜まないという方ですらトルストイの名も代表作の題名も知っているぐらい、世界に名の知れた文豪です。
82年という長い年月を歩んだ大作家は後世に100以上の作品を残しましたが、皆様はトルストイがどんな生活を送っていたのか、どんな人生を歩んだのかご存知でしょうか。

今回は、レフ・トルストイとはどういう人物だったのか、性格やちょっとしたエピソードなども交えてご紹介していきます。

レフ・トルストイの生涯について

レフ・トルストイは、ロシア貴族の中でも歴史あるトルストイ伯爵家に生まれます。トルストイの上には3人の兄が、下には妹が一人ありました。

多くの別れを経験しながら成長

トルストイは2歳の時に実の母との別れを経験します。母マリヤが妹マリアの分娩で死去したのです。それから7年後、今度は父のニコライがこの世を去り、幼年にして実の親との別れを早々経験してしまうのです。更に翌年には祖母ペラゲーヤが亡くなります。孤児となったトルストイ家の5人は叔母のオステン・サッケン夫人に引き取られますが、トルストイが13歳の時に叔母もこの世を去ります。そして、3人の兄と共にカザンのユシコフ夫人(叔母)に引き取られることになるのでした。
13年という短い年月の間に血縁を4人も失ったトルストイは、この経験が元で人の感情の機微に敏感になり、人の心が分かるようになったそうです。
28歳の時には兄のドミトリィが死去し、その4年後にはトルストイにとって父親代わりでもあった長兄のニコライがこの世を去りました。ニコライの死はトルストイに苦痛の日々をもたらすことになります。
その後50年以上生きたトルストイは、ロシア文学界に名を馳せた良きライバルたち(ゴーゴリー、ドストエフスキー、ツルゲーネフ、チェーホフなど)の死を見守ることになります。

従軍し、戦争も経験

トルストイはペテルブルグ大学に入学したものの、カルタや酒、女にあけくれ、まともな学生生活を送ってはいませんでした。さすがにこのままではいけないと感じたトルストイは23歳の時に長兄ニコライが在籍するコーカサスの砲兵隊に士官候補生として入隊します。以後、28歳で露土戦争の平和が締結されるまで軍隊に身を置きます。
軍隊にいた5年間の中で、トルストイはセヴァストーポリの戦い、黒河の戦闘に参戦しています。26歳の時には将校に昇進も果たしました。
軍隊経験はトルストイの執筆内容にも大きな影響を及ぼしました。特に顕著に現れているのが「戦争と平和」でしょう。

ところで、トルストイが作家として認められたのはちょうど軍務に勤しんでいた時です。
入隊後1年目で書いた処女作「幼年時代」がネクラーソフに認められ、一躍文壇に名を広めることとなったのです。

農業制度の改善と教育現場の整備、貧民救済に奔走する

トルストイは大貴族の出であったこともあり、幼少期から農奴の窮状と不当な扱われ方を目の当たりにしてきました。なんとか改善できないものかと、カザンの大学を中退後、故郷のヤースナヤ・ポリャーナで進歩的な地主として新しい農業経営に乗り出しました。小作人の啓蒙や生活改善などに努めたものの、農奴制度の社会で理想を実現することは不可能でした。

軍隊を退いてからは、教育に異常な関心を見せます。
まず故郷に農民の子弟のために学校を創造し、さらに教育問題を深く研究するためにわざわざ外国の教育制度を視察しにも行ったのです。
農奴解放令が発令された1861年にはヤースナヤ・ポリャーナに小学校を設立し、教育に関する多くの論文も起草しています。しかし、あまり運営が思うようにいかなかったため、10年後には自宅を塾として開き、農民の子弟の教育に自ら乗り出しました。
そんな時にロシアは飢饉に見舞われます。トルストイ一家はサマーラ地方に赴き、貧民救済に尽力します。その後の1891年、1892年の大規模な飢饉の際にも貧民救済に尽力しました。

因みにトルストイが設立した学校は1907年、トルストイが79歳の時に再び復興させています。最後の最後まで教育活動に熱心であったことがうかがえます。

トルストイの家族

トルストイは34歳の時に宮廷医ベルス家の次女ソフィア・アンドレーエヴナ(18)と結婚しました。この結婚はトルストイにとって幸せなものだったようで、新婚生活は半ば浮かれ状態で過ごしていたといいます。
結婚した翌年には早速長男も誕生し、幸せいっぱいの家庭を満喫することになります。以後子供は続々と生まれ、60歳で末子が誕生しています。その数なんと13人で、現在もその血脈は耐えておらず、世界にトルストイとソフィアの子孫は400人以上いるといわれています。

レフ・トルストイと妻ソフィア・アンドレーエヴナ

トルストイとその妻に関しては様々なエピソードが残されています。

トルストイの最期

トルストイは新婚の頃は妻と仲良くやっていたものの、執筆活動が忙しくなると家庭を顧みなくなりました。そして、貧民の窮状を見ては「自分もそうであるべきだ!」と喚き、一切の私有財産を放棄しようとして妻と大喧嘩をするに至ります。こうしたいざこざは以前からあったようですが、一番大きな衝突となったのがこの私有財産をめぐる意見の相違でした。その数年後に銀婚式を迎えますが、二人の中には大きな壁が立ちはだかっていました。
そんな状態が20年近く続いた1910年の10月末、トルストイは置手紙を残して旅に出ます。旅に出るというよりは家出に近かったようです。この旅で体調を崩したトルストイはそれから一週間もしない11月7日、駅長宅で亡くなります。もちろん、妻のソフィアは最期を看取れませんでした。

トルストイの妻は悪妻

モーツァルトの妻コンスタンスと並んで世界三大悪妻に数えられるのがトルストイの妻ソフィアです。
膨大な数の名作を残したトルストイにばかりスポットライトが当たるため、なぜあの偉大な作家を心底支えてやらなかったのか、なぜトルストイのストレスになるようなことしか言わなかったのかなど散々こき下ろされています。
しかし現実はどうだったのでしょうか。
確かに、ソフィアは度々トルストイと対峙していますが、いずれも過度に出過ぎたマネはしていません。むしろ13人もの子供を育て、多くの使用人を統率した功績は褒め称えるべきなのではないでしょうか。
13人も子供がいれば、いくらトルストイに莫大な財産があるとはいえ、私有財産を手放されては皆路頭に迷うことになります。トルストイの私有財産放棄に真っ向から反対するのは至って自然な流れのように思われます。それを、ソフィア本人が良い思いしたいから私有財産の放棄に反対したのだと勘違いしている人は意外と多いです。

2009年に映画化された「終着駅 トルストイ最期の旅」では、ソフィア側からの視点が描き出されているので、気になる方はぜひ視聴してみてください。

まとめ

大貴族に生まれ、常時そのタイトルを捨てて一農民になりたいという強い願望を抱いていた大作家トルストイの生涯についてみてきました。
作品は膨大な数あるため、今回は触れませんでしたが、一年に短編であれば4本~5本、中編でも2本、3本と書いていました。それだけでも、トルストイがいかに速筆で、文才に溢れていたかがうかがえます。
トルストイの作品というと「アンナ・カレーニナ」や「戦争と平和」などの超大作ばかりに目がいきがちですが、「イヴァンのバカ」のような童謡、短編作品も多く残されています。トルストイに興味を持たれた方は、ぜひ短編も読んでみてください。

👉[amazon]レフ・トルストイの本はこちら。

>>レフ・トルストイの作品の特徴及び評価。おすすめ代表作4選

モバイルバージョンを終了