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ニコライ・ゴーゴリってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]ニコライ・ゴーゴリ作品集 13作品合本版

ニコライ・ヴァシリエヴィチ・ゴーゴリ(1809-1852)は、ロシアに初めてリアリズム文学を確立した人物として知られています。
代表作には、「鼻」、「外套」、「検察官」、「死せる魂」などがあり、いずれも独特の人物描写が印象的な作品になっています。
クセのあるゴーゴリー作品を理解し、楽しむ上で、ゴーゴリー本人の生い立ちを知ることはとても重要です。

そこで今回は、ニコライ・ゴーゴリとはどういう人物だったのか、性格やちょっとしたエピソードなども交えてご紹介していきます。

ニコライ・ゴーゴリの生涯について

ゴーゴリはウクライナ民族の血を引いており、このことがゴーゴリー作品に大きな影響を与えることになります。

ウクライナ・コサックの血筋を誇りとする一家に生まれる

ゴーゴリは、ポルタヴァ県のソロチンツィ村に生まれます。父のB.A.ゴーゴリは地主でしたが素人芝居の脚本を書いて、実際に自分も役を演じるなど、芸術家肌の人だったそうです。しかし、病弱だったことからなかなか舞台には立てなかったようです。
母のマリヤは少女の時にゴーゴリを出産しています。気性が激しい女性で、熱狂的な信仰者だったようで、このことは後のゴーゴリーに多大な影響を与えることになります。

ゴーゴリは幼年期を父の領地ミルゴーロド郡ヴァシリエフスコエ村で過ごします。
小さい頃はとにかくやんちゃで無邪気な男の子だったようで、悪戯を楽しんだりと、自由に伸び伸びと過ごしていたそうです。

デカブリスト派の影響を受けた学生時代と挫折

ゴーゴリは9歳の時にポルタヴァ郡立小学校に入学し、その後ネージン中学校に進みます。
在学中にデカブリストの乱が起きたことからも分かるように、学生の間ではデカブリスト派の強い影響が垣間見られました。
プーシキンらの自由を讃える詩が愛読され、現行社会制度に対する反抗心も育まれたようです。そんな中でゴーゴリは詩や悲劇を書いて楽しみ、父のように役者として演劇に熱中し、何度も舞台に立ちました。

学校を卒業した後、20歳でペテルブルクへと上京します。ここで、B.アローフの名で処女作「ハンツ・キュヘルガルテン」を出版しますが、予想以上の不評が集まります。

作家を半ば諦めたゴーゴリは役者として演劇に打ち込もうとしますが、俳優として使い物にならないと酷評され、失意と幻滅の日々を送ることになります。

職が無くなったゴーゴリは、仕方なく経済・公共施設局の下級官吏に就職しますが、低賃金だったこともあり生活は大変困窮します。
しかし、低賃金の中でなんとか生きていこうとする同僚官吏の人生の切なさを痛感したことは、後のゴーゴリー作品に良い形で反映されることになります。

ゴーゴーは官吏として働く傍ら、細々と執筆を継続していました。さらに、暇を見つけては美術学校に通って絵の勉強もしました。

師プーシキンとの出会いと最盛期

1831年に「祖国雑記」誌という雑誌にゴーゴリにとって初の中編小説となる「ビサヴリュークまたはイヴァン・クパーラの夕べ」を掲載発表します。
これは好評を博し、ペテルブルク文壇との接点も持てるようになり、ジュコーフスキー、プレトニョフらと交流を持つようになります。

ジュコーフスキーらを介してアレクサンドル・プーシキンと知り合う機会を得たゴーゴリは、以後プーシキンの元で作家活動に励むことになります。
「ヂカニカ近郷夜話」第一部と第二部を発表し、これがプーシキンの激賞を受けたことで一気にロシアの文壇に名を馳せます。

ゴーゴリは、プーシキンから題名、もしくはヒントを得た作品で次々と当たり作を出し、少壮批評家のベリンスキーをも唸らせます。そしてベリンスキーはゴーゴリーをプーシキンと並んでロシア文学の首位を占めるべき作家だと称賛します。

師プーシキンとの別れと宗教への傾倒

ゴーゴリ作品の多くは好意的に受け入れられましたが、反動上流階級からは常に睨まれており、ついに「検察官」の初演では激しい非難を浴びせられてしまいます。
精神的に強くはないゴーゴリーはすっかり心を折り、傷心のままにスイスへと逃げるように旅立ちます。

翌年の冬はポーランドで過ごしますが、ここで当時神秘主義に支配されていたポーランド作家たちと交流を持ったことで、ゴーゴリも神秘主義や宗教に傾倒していきます。

時同じくして、旧師で恩師であるプーシキンが決闘の末にこの世を去ったという訃報を受けます。
ゴーゴリにとってプーシキンは恩師以上に心の支えでもあったため、そのショックと精神的ダメージは計り知れないものがありました。その結果、プーシキンの支えの穴を埋めるがごとく、ゴーゴリはより宗教にのめり込んでいくのでした。

ゴーゴリは、プーシキンからかねてより託されていた「死せる魂」を完成させるべくロシアに帰国します。
厳しい検閲にあいながら、なんとか出版にこぎ着けたゴーゴリでしたが、相変わらず反動的な批評家、上流階級からは悪評が付けられます。

再びロシアに幻滅したゴーゴリは国外へ旅立ち、著作集をまとめます。「死せる魂」の第二部へは着手しているものの、精神的疲弊のため執筆は進みません。

精神崩壊と晩年

1847年、「死せる魂」の完成を半ば諦めたゴーゴリは「友人との往復書簡抜粋」を発表しますが、それまで全面的にゴーゴリを支持し、擁護してきたベリンスキーの反駁にあいます。
文面でも十分にゴーゴリの精神状態の危うさが見て取れることから、ベリンスキーは宗教的な繋がりのある人物との交流を辞めるようゴーゴリを説得しますが、ゴーゴリには届きませんでした。

それどころか、神秘主義に完全に脳内を占領されているゴーゴリは、急にエルサレムへと巡礼します。

1852年には狂信的なマトヴェイ・コンスタンチノフスキーに近づき、より一層宗教にはまり込みます。これによって、それまでの自分の作品が神を冒涜するものだと信じ切ったゴーゴリーは半狂乱のまま「死せる魂」の第二部を火中に投じてしまい、その後にこの世を去ります。

ゴーゴリは精神を病んでしまった時に治療をしなかったわけではありません。しかし、ゴーゴリの病状が明らかに宗教的要素によって引き起こされたものであったことから、神父や悪魔祓いがゴーゴリの治療に臨んでいたようです。

そのため、かなりの荒療治が施され、よりゴーゴリの肉体と精神を蝕んでいったと言われています。

ゴーゴリとツルゲーネフ

ゴーゴリの交友関係ではプーシキンとの師弟関係が特に有名ですが、実はゴーゴリにはツルゲーネフとの接点もありました。

1834年、当時25歳だったゴーゴリはプレトニョフの斡旋によってペテルブルク大学の助教授になり世界史を担当したことがありました。世界史といっても特にウクライナ史について講義をしていたようです。

この講義を聴いている生徒の中に、なんとイワン・ツルゲーネフがいたんだそうです。
ゴーゴリは自身が教職者には全く向いていないことを理由に1年も勤務せずに助教授職を辞しているので、ツルゲーネフがゴーゴリの講義を聴けたことは奇跡に近いとも言えるかもしれません。

まとめ

ウクライナ人気質を持ったロシア作家のゴーゴーについて見てきました。

ゴーゴリはプーシキンを師として活動していた頃は精神的にも安定し、良い作品を多く生み出しました。
しかし、プーシキンという大きな柱を失ったゴーゴリーは、精神を崩壊させ、宗教に救いを求めるようになります。挙句、自分がこれまで書いてきた作品は全て神を冒涜するものであり、悪であると信じ、作品を滅ぼすまでに壊れてしまいます。

ゴーゴリは生涯にわたり独身を貫き通しましたが、もし恋人など、プーシキンに代わってゴーゴリを精神的に支えてくれる人物が近くにいたのであれば、晩年のような苦しみを味わうことはなかったのかもしれません。

幻となってしまった「死せる魂」の第二部の内容がきになるところではありますが、まだ第一部も読んでいないという方は是非読んでみてください。

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