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横溝正史ってどんな人?その生涯や家族は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]横溝正史読本 (角川文庫)

20世紀初頭に生まれ、昭和に活躍した日本を代表する推理作家の横溝正史。横溝正史という名前は知らなくとも、「金田一」という名前は誰しも聞いたことのある名前だと思います。江戸川乱歩以降、日本の推理小説を牽引した横溝正史は、「八つ墓村」などの金田一耕助シリーズで爆発的な人気を獲得しました。おもに金田一シリーズの作者として知られる横溝正史ですが、時代劇作品も多数執筆し人気を博しました。そこで今回は、日本を代表する推理小説家である横溝正史の生涯について紹介します。

横溝正史の生涯について

横溝正史(本名よこみぞ・まさし)は1902年(明治35)、父・宜一郎と母・波摩の3男として生まれました。ペンネームの「よこみぞ・せいし」は、本名の「正史(さまし)」を友人が誤って読んだことから付けられました。

1920年(大正9)に神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を卒業した横溝は、大学に進学せず18歳で銀行員に就職します。探偵小説に夢中になったのもこの頃でした。銀行員になった横溝でしたが、仕事が合わなかったのかすぐに退職してしまいます。銀行を退職した翌年1921年(大正10)、実家の家業を継ぐために大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)に進学します。そしてこの年、雑誌「新青年」に応募した「恐ろしき四月馬鹿(エイプリルフール)」が一等を受賞し、さらに「深紅の秘密」が特別懸賞3等入選、「一個の小刀」で一等に入選するなど、若くして横溝は文才を発揮しました。

1924年(大正13)、大学を卒業し実家の生薬屋をしばらく手伝ったのち、横溝の才能に目を付けた江戸川乱歩の招きで上京します。1927年(昭和2)から、自分が応募していた雑誌「新青年」の編集長に抜擢され、それと同時に「文芸倶楽部」や「探偵小説」などの雑誌編集に携わり、本格的に作家活動に専念するようになります。

作家として順調に見えた横溝ですが、1933年(昭和8)、「面影双紙」の発表後に喀血(かっけつ)し、翌1934年(昭和9)から長野の療養所で療養生活を送っています(横溝の休載中に代打として作家デビューしたのが小栗虫太郎です)。長野での療養後、「鬼火」などの代表作を発表しますが、戦争が近づくにつれ当局による検閲が厳しくなり、探偵小説の執筆依頼が激減します。検閲を逃れるため、この頃の横溝は捕物帳や時代小説、子供向けの作品などを執筆して作家活動を続けました。

1945年(昭和20)、太平洋戦争が始まると横溝は一家5人で岡山県吉備郡(現・岡山県倉敷市吉備町)に疎開します。岡山での生活はとても充実していたようで、後年「人生でもっとも楽しい時間だった」と回想しています。

太平洋戦争が終わり再び探偵小説を執筆した横溝は、1948年(昭和23)、「本陣殺人事件」で金田一耕助シリーズを発表し、以降人気推理小説家として金田一ブームを巻き起こします。大人気作家となった横溝は、4誌同時に連載するなど多忙な日々を送りましたが、1960年代になると社会派ミステリーが流行し、執筆活動が減少してしまいます。しばらく休筆していた横溝ですが、1968年(昭和43)に「八つ墓村」が漫画になったことがきっかけとなり、再び横溝ブームが到来します。また、金田一シリーズが続々と映画化やテレビドラマになったことで、横溝の人気も不動のものとなりました。1970年(昭和45)には、初の全集を刊行しています。

横溝ブームの勢いは凄まじく、1974年(昭和49年)に角川文庫から発売された金田一シリーズは300万部を突破。1979年(昭和54)には角川文庫の横溝作品が4000万部を突破するという驚異的な売上を記録しています。この間、1976年(昭和51)に横溝は勲三等瑞宝章を受賞し、公私共に充実した生活を送りました。その後も「仮面舞踏会」や「悪霊島」など、70代になっても意欲的に作品を発表し続けた横溝は、生涯現役作家として活躍しました。

そして1981年12月、国立病院医療センター(現・国立国際医療研究センター)にて直腸ガンで亡くなりました。

性格を物語るエピソードは?

閉所恐怖症に悩まされ、大の電車嫌いだった横溝正史。どうしても電車に乗らなくてはならないときは、お酒の入った水筒を持ち歩きチビチビと飲みながら恐怖を紛らわせていたそうです。

また、温厚な人柄で知られていた横溝ですが、作品を執筆しているときは普段とは別人のようだったそうです。執筆が行き詰まった際には、趣味の編み物をして気分転換をしていたという微笑ましいエピソードが残されています。

死因について

70代になっても「悪霊島」を執筆するなど、旺盛な執筆活動を続けた横溝でしたが、1981年12月、結腸ガンでこの世を去りました。享年79歳でした。晩年に過ごした成城の自宅書斎は、横溝の死後、山梨県山梨市に寄贈され「横溝正史記念館」として一般公開されています。

家族について

1927年に結婚した横溝は妻・孝子との間に1男2女を授かりました。横溝が結核で長野に療養したときには、家族5人で長野に滞在したそうです。長男の亮一は東京新聞の記者を務め、新聞社を退職後は音楽評論家として活躍し、いくつかの大学で教鞭も取りました。また、2005年にはフィンランド政府からフィンランド獅子勲章を授与されています。

まとめ

横溝正史の生涯について解説しました。晩年まで旺盛な執筆活動を続けた横溝でしたが、若い頃は薬剤師だったというのは面白いエピソードだと思います。横溝作品はテレビドラマなどで見たことがある方が多いと思いますが、これを機会に、ぜひ原作も読んでみてください。一読すれば、よりいっそう横溝作品の面白さを体験できると思いますよ。

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