出典:[amazon]生き抜くためのドストエフスキー入門 (新潮文庫)
ロシア文学史上最高の作家と称されるフョードル・ドストエフスキー(以下ドストエフスキー)。ドストエフスキーが遺した作品は170以上の言語に翻訳され、現在でも世界中の人々に愛読されています。キリスト教的人道主義の立場に身を置いたドストエフスキーは、しばしば「ヒューマニズムの作家」と言われますが、その一方で、作品設定やテーマの残酷さから「悪魔主義の作家」とも称されています。「罪と罰」や「悪霊」などの歴史的名作を遺したドストエフスキーとはどのような人物だったのでしょうか。今回はドストエフスキーの生涯について解説します。
ドストエフスキーの生涯について
ドストエフスキーは1821年11月、ロシアのモスクワに生まれました。父・ミハイルは貧民救済病院の医師を務め、のちに「地主貴族」となっています。母も裕福な商人の娘でした。比較的裕福な家庭に育ったドストエフスキーは、1834年、名門チェルマーク寄宿学校に通います。子供の頃のドストエフスキーは同世代の友達がほとんどおらず、多くの時間を兄弟たちと過ごしました。学校に入学するまでの教育は、おもに家庭教師や父親から受けたそうです。母も教養ある人物で、ドストエフスキーは母が読んでいた「旧約聖書」や「新約聖書」、ドイツの詩人シラーの詩集を読んで感銘を受けたと言われています。
1838年、サンクトペテルブルクの陸軍学校へ入隊したドストエフスキーでしたが、翌年、父・ミハイルが農民からの恨みをかい惨殺されるという事件がおこります。1843年、陸軍学校を卒業したドストエフスキーは、軍の製図局に配属されますが1年あまりで退職し、作家を目指すようになります。
1846年、農民の苦しい生活や悲しい恋を描いた「貧しき人々」が有名評論家の目に留まり、ドストエフスキーは「第2のゴーゴリ」として一躍注目を集めます。しかしその後1849年、空想社会主義サークルに入っていたことで当局に逮捕され、死刑宣告を受けてしまいます。死の淵に立たされたドストエフスキーでしたが、銃殺刑が執行される直前に皇帝ニコライ1世が特赦を発表したことで死刑を免れ、4年間のシベリア送りとなりました。
シベリアでの生活はまさに「地獄」の日々だったようで、この経験がドストエフスキーを社会主義的思想からキリスト教的人道主義に転換させたきっかけとなりました。逮捕からおよそ10年の月日が経った1859年、ドストエフスキーにようやくサンクトペテルブルクへの帰郷が許可され、刑期を終えました。
過酷な環境を生き抜いたドストエフスキーは、1861年に兄・ミハイルと共に文学雑誌「時代」を創刊し再び作家の道を志します。この雑誌で発表した「死の家の記録」や「虐げられた人たち」は好評となりましたが、またも当局から目を付けられ「時代」は廃刊に追い込まれます。その後1864年、今度は「世紀」という評論雑誌を創設し、代表作「地下室の手記」を発表しました。しかし同年、兄・ミハイルが亡くなり多額の負債を抱えることになったドストエフスキーは極貧生活を余儀なくされました。
極貧生活を抜け出すために出版業者と契約して作家活動を続けたドストエフスキーは、1866年に代表作「罪と罰」や「賭博者」など次々と新作を発表します。しかし契約した出版業者が悪徳出版社だったため執筆が追いつかず、「賭博者」は口述筆記で書かれたそうです。そしてこのときにアシスタントを務めたアンナと1867年に再婚しています。1860年代から死去する1881年まで、ドストエフスキーは文学史上の傑作を多く残しています。
1868年に「白痴」、1872年に「悪霊(あくりょう)」、1880年には最後の傑作「カラマーゾフの兄弟(第1部)を発表します。そして「カラマーゾフの兄弟」を発表した翌年の1881年、ドストエフスキーはサンクトペテルブルクにて死去しました。享年59歳でした。亡骸は多くの著名人が眠る、アレクサンドル・ネフスキー修道院に埋葬されています。
性格を物語るエピソードは?
・大のギャンブル好きだったドストエフスキー。賭博で大失敗した経験は1度や2度ではありませんでした。とくに好きだったのがルーレットで、2人目の妻・アンナとドイツ旅行をしたときも、アンナそっちのけでルーレットに熱中したと言われています。また、あり金を使い果たした際には、手紙で何度もお金を無心したり、挙げ句の果てにはアンナとの結婚記念として送ったブローチや、ダイヤ付きの耳飾りまで質屋に入れて資金を調達したそうです。ちなみに、ドストエフスキーが愛用した「ルーレット」は現在もドストエフスキー博物館に展示されています。
・はっきりとして時期はわかっていませんが、ドストエフスキーは25歳くらいから「てんかん発作」に悩まされていたようです。その症状は現在でも医学的分析対象となっています。
死因について
サンクトペテルブルクに帰国後、ドストエフスキーは気管支炎を発症します。この原因としてドストエフスキーがヘビースモーカーだったことが挙げられますが、詳しくはわかっていません。毎年夏にドイツのエムス鉱泉で療養したものの症状は改善せず、やがて肺気腫を合併してしまいます。亡くなる数日前に喀血(かっけつ)し、その後しばらく小康状態が続きましたが、1881年1月28日、肺血症によりこの世を去りました。享年59歳でした。亡くなる当日に妻・アンナに向かって「今日は死ぬだろうな」と予言めいた言葉を呟き、「聖書占い」をしたそうです。
まとめ
今回はドストエフスキーの波乱の生涯について解説しました。ドストエフスキーが人類史上稀に見る傑作を残せたのは、もちろん本人の卓越した才能によりますが、それと同時にシベリアなどでの地獄の生活を生き抜いた経験によるのは言うまでもありません。過酷な人生を送ったドストエフスキーの作品は少し「暗い」イメージがありますが、読み進めるほどに作品の奥深さや思想の鋭さを体験できます。まだドストエフスキーの作品を読んだことのない方は、ぜひ一度読んでみてはいかがでしょうか。