出典:[amazon]決定版 江戸川乱歩全集 日本文学名作全集
名探偵・明智小五郎シリーズや、小林少年が活躍する怪人20面相シリーズなど、多くの名作を残した江戸川乱歩。江戸川乱歩は日本における推理小説の礎を築き、その発展に多大な貢献を果たしました。一方で、乱歩の人生はとてもユニークなものであり、「人間嫌い」や「孤独癖」のため人生で46回も引っ越したと言われています。現在でも人気作家であり、多くの読者に愛されている江戸川乱歩の人生とはどのようなものだったのでしょうか。今回は、江戸川乱歩の人生についてご紹介します。
江戸川乱歩の生涯について
江戸川乱歩(本名・平井太郎)は1894年(明治27)、三重県の名張町(現・名張市)に生まれました。平井家は代々武士の家系で、乱歩の祖父まで藤堂家の藩士をしていました。
3歳から18歳まで名古屋で過ごした乱歩は、幼少の頃から孤独癖や人間嫌いの傾向があり、あまり学校に行かなかったそうです。探偵小説に関心を持つきっかけとなったのは、小学生のときに母から読み聞かせられた、菊池幽芳(ゆうほう)訳の「秘中の秘」に触れてからでした。ペンネームの江戸川乱歩とは、「モルグ街の殺人」で知られるイギリスの作家エドガー・アラン・ポーをもじったものです。
高校卒業後に上京し、早稲田大学政治経済学部に進学します。中学生時代から文学に目覚めていた乱歩は、大学在学中に「火縄銃」を雑誌「冒険小説」に投稿しますが、掲載にはいたりませんでした。大学卒業後は、貿易会社や古本屋、支那そば屋など職を転々として生活していたそうです。どの事業もうまく行かなかったわけではないそうで、そば屋はそれなりに繁盛していたと言われています。
1917年(大6)、鳥羽造船所電機部(現シンフォニア・テクノロジー)の庶務課に勤めた乱歩は、技術長に気に入られ、社内誌の編集や子供へおとぎ話を読み聞かせる活動に従事するようになります。この読み聞かせの活動で知り合った村山隆子と、1919年に結婚し生涯を共にすることとなりました。造船所での勤務も1年余りという短い時間でしたが、造船所での体験が乱歩の傑作「屋根裏の散歩者」や「パノラマ島奇談」の参考になったそうです。
生活のために探偵小説を描き始めた乱歩は、1923年(大12)、消えた5万円の行方を描いた探偵小説「二銭銅貨」を雑誌「新青年」に発表し、編集者の森下雨村(うそん)に賞賛され作家デビューとなります。その後、1926年(大15)に山本有三の代わりに執筆した「一寸法師」が人気を博し、同年映画にもなっていますが、本人は作品の出来に満足が行かなかったようでこの作品を執筆以降、一度休筆します。
全国の名地を旅して周り、十分な休息をとった乱歩は中期の代表作「陰獣」や「蜘蛛男」、明智小五郎シリーズなどを意欲的に発表します。しかし1930年代後半になり戦争の足音が近づくと、この時期に発表した「芋虫」が発禁処分を受け、またそれまでに執筆した多くの作品も検閲対象となってしまいました。
戦争中は少年探偵ものも執筆することができず、別名義で子供向けの科学作品を執筆しました。やがて戦争が終わり執筆活動を再開した乱歩は、「少年探偵シリーズ」で再び大人気作家となります。さらに乱歩の活動は執筆だけにとどまらず、評論活動や1947年(昭和22)には探偵作家クラブ(後の日本推理作家協会)を設立するなど、日本における推理小説の地位の向上に務めました。
また、プロデューサーとしても活躍した乱歩は、戦後になると新人の発掘に尽力しました。なかでも星新一、筒井康隆、大藪春彦がその代表で、乱歩に見出された才能はその後大きな活躍をしています。さまざまな分野で功績を残し、推理小説の礎を築いた乱歩は「大乱歩」と称され、文壇での地位は揺るぎないものとなりました。
晩年になっても執筆意欲は衰えず、パーキンソン病になりながらも作家活動を続けた乱歩は、1961年(昭和36)に紫綬褒章を受賞するなどその業績が大きく評価されました。そして受賞後の1965年7月、池袋の自宅にて亡くなりました。享年70歳でした。
性格を物語るエピソードは?
少年時代から一人でいることが好きだった乱歩は、中学時代にいじめられたことが理由で、ほとんど学校に行かなかったそうです。学校に行ったとしても、図書室で一日中本を読んでいたと言われています。
長らく孤独癖を抱えていた乱歩でしたが、50歳のときに転機が訪れます。戦後まもない頃、「昼間ヒマそうだから」という理由で町内会の防災訓練長に指名された乱歩は、これを機に町内の人々と親しくなり、一気に孤独癖が解消されていきます。このことについて乱歩自身も「実に恐るべき変化」と述べています。
また、小説家になるまでは職を転々とし、15の職についたそうです。その理由は「朝起きられない」や「朝起きて定時まで働く規則正しい生活ができない」というものでした。
小説家になるまでに就いた職業は、
- 衣類販売
- 古本屋
- 蕎麦屋
- タイプライターの行商
- 造船所の庶務
だったそうです。引越しの回数もさることながら、江戸川乱歩は相当な飽き性だったのかもしれません。
・存命中に全集が4回も刊行されたのは、日本の文学史上江戸川乱歩ただ一人とされています。このことから、乱歩作品の人気度が窺い知れます。
死因について
晩年は高血圧症や動脈硬化、パーキンソン病に悩まされた江戸川乱歩。病気の影響により、自分で執筆するのは困難となりましたが、周りの人々に助けられ、口述筆記で作品を完成させました。そんな乱歩でしたが、1965年7月28日、くも膜下出血のため池袋の自宅で亡くなりました。享年70歳。命日は、1934年(昭和9)に乱歩が残した中編小説「石榴」(ざくろ)にちなんで、「石榴忌(ざくろき)」とされています。
まとめ
江戸川乱歩の人生についてご紹介しました。小説家として成功するまでの乱歩は、職を転々とした自由人だったようです。小説家としてブレイクした後も、たびたびスランプに悩まされた乱歩でしたが、そのたびに新しい発想を取り入れ、多くの読者を獲得しました。作品は映画、ドラマ、舞台など、さまざまなジャンルで取り上げられていますので、ぜひ江戸川乱歩の作品に触れてみてはいかがでしょうか。