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山田美妙ってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]書斎は戦場なり 小説・山田美妙 (中公文庫)

山田美妙という人物をご存知ですか?彼は、江戸時代から明治時代に変わる年に生まれ、言文一致の先駆者と呼ばれる作家です。42年の生涯の中で、さまざまな活動をしながらも、スキャンダルや人間関係の問題などにより、文壇の中心的存在にはなれず、寂しい晩年を過ごしたといわれています。
今回は、山田美妙の生涯や性格を物語るエピソードをご紹介します。

山田美妙の生涯

ここでは、山田美妙の42年の生涯を追っていきます。

誕生から幼少期

山田美妙は、本名山田武太郎といい、江戸時代から明治時代へと変わる1868年(慶応4年)8月に東京神田で生まれました。父は旧南部藩士の山田吉雄で、武太郎が3歳のときから、警察や武道の教育振興機関である武徳会の活動などのため離れて暮らしていました。母よしと祖母海保ますに育てられた武太郎でしたが、母の教育は非常に厳しいものだったといいます。

硯友社設立と言文一致運動

1874年に私立烏森学校に入学し、尾崎徳太郎(紅葉)と知り合います。12歳頃から詩を学び小田源蔵に教えを受け、漢文を石川鴻齋から、和歌を叔父の山田吉就から学びました。1884年には大学予備門(第一高等学校)に入学し、尾崎紅葉、石橋思案、丸岡九華らと硯友社を結成します。雑誌『我楽多文庫』を編集刊行し、山田美妙は「竪琴草紙」という曲亭馬琴風の作品を発表し、これが処女作になりました。

翌年には「嘲戒小説天狗」を発表し、これは言文一致体で書かれた先駆的な小説でした。また新体詩への意欲もあり、尾崎紅葉、丸岡九華とともに『新体詞選』を刊行し、第一高等学校を退学しました。

1887年に読売新聞に「武蔵野」を連載し、最初の言文一致体の新聞小説となります。さらに婦人雑誌『以良都女』を創刊し、短篇集『夏木立』、小説雑誌『都の花』と、次々と新たな取り組みをしていきます。この頃の山田美妙は、20歳にして名声を得たといいますが、硯友社とは疎遠になりフェードアウトします。

徳富蘇峰らが組織した「文学会」にも参加し、雑誌『国民之友』で初めて小説「蝴蝶」を執筆したものの、挿絵に初めて裸体が登場したため、発売禁止となるなど物議をかもしました。

その後も、『国民之友』や国民新聞、『文芸倶楽部』、『世界の日本』などに作品を発表しましたが、浅草の茶店の女に子どもを産ませるも籍を入れず、作品の題材とするためと言ったことが新聞や雑誌で非難されました。その後弟子の女流作家田澤稲舟と結婚し、共同執筆の「峯の残月」を『文芸倶楽部』に発表するなどしましたが、稲舟と美妙の祖母の折り合いが悪く、離婚します。さらに故郷に帰った稲舟が自殺未遂の後に病死した際に、新聞に自殺と報じられたため非難を被り、美妙は文壇から遠ざけられるようになります。

フィリピン独立革命との関わりと晩年

19世紀末から起こったフィリピン独立革命にシンパシーを抱いた山田美妙は、独立の志士エミリオ・アギナルドの伝記『あぎなるど』や独立運動の話『羽ぬけ鳥』を執筆します。また王子村に移り王子義塾を開きますが、1901年に脳溢血で倒れ、それから禁酒の人生になりました。その後回復し、1903年頃からはおもに歴史小説を発表するようになります。国家主義的な思想をもち、日本の北進政策を背景に『女装の探偵』や『漁隊の遠征』などを執筆します。

1907年から『大辞典』の刊行をすすめますが、1910年6月に耳下腺癌腫と診断され、10月24日に死去しました。『大辞典』は1911年に発刊されています。晩年は文壇内で親しい交際もなく、病と貧しさに苦しんだといわれていますが、石橋思案と丸岡九華が病床での世話をしてくれたそうです。

性格を物語るエピソード

弱冠20歳にして名声を得た山田美妙ですが、世間をうまく渡り歩くことができなかったため、その後の人生は順風満帆とはいえませんでした。そんな美妙の性格を物語るエピソードをご紹介します。

母の育て方

母と祖母に育てられた山田美妙(武太郎)ですが、母は厳しく、自由に友人を作ることも遊ぶことも許されなかった幼少期を過ごしました。青年になっても他人に反論できなかったり、人間関係の構築に苦労したりするのは幼少期からのことが関係しているのかもしれません。

3度のスキャンダル

山田美妙は、大きく3度のスキャンダルによって、社会的な評価を落としてしまった人物ともいわれています。1度目は『蝴蝶』の挿絵に裸体が登場したことです。当時、挿絵に裸体が使用されることは初めてだったので、物議をかもし、発禁処分になるなどしたため、文学的な正しい評価がなされませんでした。

2度目は26歳頃で、作品の題材のための実体験として浅草の茶店の女に子を産ませたことが、『万朝報』や『毎日新聞』などで非難され、坪内逍遙にも批判されるなどしました。3度目は元妻・田澤稲舟の自殺未遂ののちの病死が、自殺と報じられたことにより非難されたことです。

このようなスキャンダルが、美妙が世間や文壇から遠ざけられた要因となったと言われています。

まとめ

言文一致の先駆者として若くして名声を得た山田美妙ですが、世間や文壇との折り合いが悪く、その後はなかなか活躍することができませんでした。彼の作品も手に入るものはあまり多くはありませんが、代表作『武蔵野』などは言文一致の時代の躍動を感じられる貴重なものですので、一度読んでみてはいかがでしょうか。

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