明治から昭和にかけて活躍した幸田露伴。「五重塔」などの名作で知られる幸田露伴は、夏目漱石や正岡子規と同年に生まれ、その作風は「露伴・漱石・鴎外」と並び称されるほどの人物です。日本の古典文学を耽読(たんどく)し、中国文化研究でも大きな役割を果たした幸田露伴とはどのような人物だったのでしょうか。今回は幸田露伴の人生やエピソードについてご紹介します。
幸田露伴の生涯
幸田露伴(本名・成之(しげゆき))は1867年(慶応3)、武蔵国江戸下谷(現・東京都台東区)に生まれました。幸田家は代々、大名などの身の回りの世話をする表坊主の家系でした。幼少の露伴はとても病弱で、何度も生死の境をさまよったそうです。
しかし無事に成長した露伴は、6歳で習字を習い、7歳から素読(音読)を始め、1875年(明治8)に東京師範付属小学校(現・筑波大学付属小学校)に入学し、1879年に無事に卒業します。その後、東京府第一中学校(現・日比谷高校)に進学しますが、金銭的な理由により翌年退学します。のちに「紅露時代」と称される尾崎紅葉とは中学時代の同級生です。学校を中退したものの勉強熱心だった露伴は、湯島聖堂にある図書館に通い、仏典や江戸文学を読み漁ったと言われています。この頃の経験が、後の作品に大きく影響を与えています。
1881年に東京英学校(現・青山学院)に進学しましたが、翌年にまたも学校を中退し、自活のために電信修技学校に通い始めます。今度は無事に卒業した露伴は中央電信局に勤め、北海道の余市(よいち)に赴任することになりました。しかし余市での生活があまりにも退屈だったのと、赴任中に読んだ坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)の「小説真髄」に感銘を受けた露伴は無断で東京へ戻り、作家の道を志します(北海道から東京へ帰る道程を描いた作品が「突貫紀行」です)。そして帰京中に得た句「里通し いざ露と寝ん 草枕」から、「露伴」と命名しました。東京へ帰った露伴は井原西鶴を読み漁り「好色五人女」を写本するほど熱中したそうです。
1888年(明治21)、「露団々(つゆだんだん)」を執筆し、依田学海(よだ・がっかい)の推薦で「都の花」に連載を始め、作家としてデビューします。その後、中学時代の同級生だった尾崎紅葉と再会し「風流仏」や「縁外縁」、「一口剣」など次々と作品を発表。1891年に書いた「五重塔」が世間の大きな注目を集めるようになります。明治20年代は、尾崎紅葉と幸田露伴の人気が高まり「紅露(こうろ)時代」と呼ばれるようになりました。また1896年には、森鴎外や斉藤緑雨(りょくう)と共に「めさまし草」という新作小説合評にも参加しています。
20世紀に入っても精力的に活動した露伴は、1908年、京都帝国大学に招かれ国文学の講師を勤めています。日本文脈論や「曽我物語」を題材にした授業を行いましたが、京都という土地柄とアカデミックな世界が馴染まなかったのか、1年足らずで京都を離れてしまいます。後年その理由を尋ねられたところ「京都は山ばかりで釣りができない」とユーモアを交えて答えたそうです。
20世紀は露伴にとって「研究の時代」だったようで、とくに中国の古典や宗教(道教)などを熱心に研究し、その分野の業績も多大なものとなりました。研究に没頭していたため、しばらく執筆活動から離れていましたが、1919年に中国文学を元にした「運命」を発表し、またも注目を集めます(谷崎潤一郎が「運命」を絶賛しました)。
1937年には第1回文化勲章を受賞。この年の6月には帝国芸術院の会員になるなど、露伴は文学者としての地位をますます高めていきます。執筆意欲が旺盛だった露伴は、その後も「幻談」、「雪たたき」、「連環記」などを発表し晩年も多くの作品を発表しました。
長きにわたる作家人生を謳歌した幸田露伴は、1947年(昭和22)7月に狭心症で倒れ、間もなく帰らぬ人となりました。享年80歳。幕末から昭和まで生きた数少ない文豪として「大露伴」と称され、後世の作家たちに多大なる影響を与えました。
性格を物語るエピソードは?
・釣りや将棋、書道など多趣味で知られた幸田露伴ですが、大の酒好きだったそうです。普段は厳しい人柄でしたが、お酒を飲むと陽気で饒舌だったと言われています。また亡くなる2〜3日前にもビールを飲みたいと言って、吸引でビールを飲んだそうです。娘で随筆家・小説家の幸田文(あや)は父・露伴について次のように述べています。
「父はよく酒を飲んだ。一人でも飲み客とも飲んだ。(中略)、機嫌良く酔っているとき話を聴かせてくれるにしても、浮き立つような面白さであった」
・都市論などにも考察のあった露伴は「滑稽御手製未来記」の中で、無線送電や電気自動車、動く歩道などに言及しており、このことから、かなりの未来志向だったことがうかがえます。
死因について
日本の古典文学から中国の儒教や道教まで研究し、幅広く深い学識を持っていた幸田露伴。1920年代から研究していた「芭蕉七部集評釈」を最後に、1947年狭心症で亡くなりました。享年80歳。遺骨は池上本門寺に埋葬されています。長く住んだ墨田区の自宅は老朽化に伴い取り壊されましたが、跡地は公園として利用され、現在も「墨田区立露伴児童公園」として人々の憩いの場となっています。
まとめ
いかがでしたか?今回は幸田露伴の人生についてご紹介しました。現代に生きる私たちにとっては露伴の文章は少し読みにくく感じてしまうかもしれませんが、読み進めていくと文章のリズムや、口語体と文語体の絶妙なバランスを感じることができると思います。原文で読むのが難しい場合は、現代語訳もありますのでこれを機会にぜひ幸田露伴の作品を読んでみてください。