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志賀直哉ってどんな人?その生涯や娘は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]和解 (新潮文庫)

志賀直哉は明治・大正・昭和にかけて活躍した近代日本文学を代表する作家です。生涯を通じて多くの作品を残しており、「暗夜行路」や「城の崎にて」は志賀直哉の代表作として今もなお多くの読者に読まれています。卓越した情景表現や心情描写により、「小説の神様」と呼ばれた志賀直哉とはどのような人物なのでしょうか。今回は、志賀直哉の人生をご紹介します。

志賀直哉の生涯

 

志賀直哉は武者小路実篤や有島武郎らとともに雑誌「白樺」を創刊した「白樺派」を代表する作家です。およそ90年にわたる波乱とロマンにあふれた志賀直哉の人生をご紹介します。

幼少時代から作家になるまで

志賀直哉は1883年(明治16)、宮城県石巻町(現石巻市)に生まれました。父・直温は銀行に勤めており、とても裕福な家柄だったそうです。志賀直哉には兄がいましたが、残念なことに早くに亡くなってしまったため、直哉は志賀家の跡取りとして大切に育てられました。

2歳の頃に東京に住んでいた祖父の元へ転居し、家が裕福だったことから学習院予備科へ通います。学生時代の志賀はあまり態度が良い学生とは言えず、2度落第しています。しかしこれが幸いして、同じく学習院に通っていた武者小路実篤と同級となり生涯の友人となりました。学習院時代にすでに和歌などを発表していましたが、この頃の志賀は海軍軍人や実業家を目指していたそうです。

1901年(明治34)になると、志賀家に滞在していた書生の勧めで内村鑑三と出会い、大きな影響を受けます。内村鑑三の講演を聞いた志賀は、「本当のことを聞いた」と感激し、以降7年にわたり内村鑑三のもとに通います。

1903年(明治36)、学習院高等科に入学すると、志賀は女義太夫に熱中します。女義太夫を見た志賀は「何かで人を感動させたい」と思い始め、次第に小説家の道を志すようになります。1906年(明治39)、無事に学習院を終了した志賀は、東京帝国大学英文科に入学します。このとき、英文科で教鞭をとっていたのが夏目漱石です。志賀も漱石の授業を聞いたそうですが、ほとんど大学へは行かず、その後国文学科に移りましたが、1910年(明治43)東大を退学します。大学は退学したものの、同年、里見弴(とん)や武者小路実篤とともに雑誌「白樺」を創刊し、これを機に志賀は本格的に作家活動を始めます。

作家として

作家として生きることを決めた志賀は、1913年(大正2)に発表した初の短編集「留女」が漱石に賞賛され、続いて「清兵衛と瓢箪」を発表するなど精力的に執筆活動を行います。1914年(大正3)、実篤の従妹の康子(さだこ)と結婚し、公私ともに充実した日々を送ります。

志賀は各地を転々としたことでも有名ですが、1915年(大正4年)から1923年(大正12)に千葉県の我孫子に移り住み、作家としての充実期を迎えます。代表作「小僧の神様」や「焚火」などが執筆されたのもこの時期で、志賀の代名詞である「暗夜行路」の連載を開始したのも我孫子在住時代です。

しかしやがて筆が進まなくなり、気分を変えるために京都に移住します。京都では茶屋の娘と浮気したそうで、のちにその体験を元にした「山科(やましな)もの」という4部作を発表しています。1925年(大正14)、友人の誘いを受けて今度は奈良に住みます。志賀は奈良をとても気に入ってようで、志賀自らが設計した家に居を構えました。そこには、志賀を追いかけてきた小林秀雄や、小林多喜二などが訪れたそうです。またこの頃、志賀は中国の満州や北京を見て回り、その後、この旅行のきっかけとなったエピソードを小説「万暦赤絵」として発表しています。

1937年(昭和12)、「暗夜行路」がようやく完成し、1938年(昭和13年)再び東京へ戻ります。東京へ戻った理由は、息子を学習院に通わせるためだったそうです。太平洋戦争が始まると、1942年(昭和17)、シンガポールでの戦いの勝利を讃える「シンガポール陥落」を発表しましたが、その後3年以上にわたり執筆活動を抑えるようになります。

晩年

やがて戦争が終わり、志賀は執筆を再開します。1946年(昭和21)に自らが立ち上げのきっかけとなった雑誌「世界」に「灰色の月」を発表し、再び注目を集め、のちに日本ペンクラブの会長も勤めています。

1952年(昭和27)には初のヨーロッパ旅行を経験。イタリアやパリなどを訪れましたが、ロンドンで体調を崩し、そのまま帰国することになってしまいました。

1955年(昭和30)になると、今度は渋谷へ移住しますが、この頃の志賀は作家活動が少なくなり、執筆といっても、エッセイや新聞に評論を書く程度のものでした。そして1969年(昭和44)、随筆「ナイルの水の一滴」を最後に作家活動に終止符が打たれました。

志賀は子宝に恵まれ、長男の直康は生後まもなく亡くなってしまいましたが、1男6女を授かりました。

性格を物語るエピソードは?

無宗教だった志賀直哉には、次のようなエピソードが残されています。

ある日、志賀が散歩をしていると道端にお地蔵様があったそうです。志賀はそのお地蔵様を蹴り倒し、そのまま放置しました。すると生後まもなくの直康が急逝し、志賀自身も坐骨神経痛に悩まされるようになります。妻の康子は、お地蔵様を直して供養するように提案しましたが、志賀は「体はいずれ良くなる」と頑なに拒否したそうです。

死因は?

1971年、志賀は肺炎のため老衰で亡くなりました。88歳でした。告別式と葬儀は、志賀の希望で無宗教式で行われ、葬儀委員長の里見弴が弔辞を述べました。告別式には親友の武者小路実篤もかけつけ、原稿なしの弔辞を述べたそうです。

まとめ

いかがでしたか?今回は志賀直哉の人生をご紹介しました。文壇で確固たる地位を築いた志賀は、同時代のみならず、後世の文壇に大きな影響を残しました。プロレタリア文学を代表する作家・小林多喜二は、あまりにも志賀直哉が好きで自宅まで押しかけたというエピソードも残されています。志賀直哉の作品には、心に残る名作がいくつもあるのでぜひ一度読んでみてください。

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