武者小路実篤ってどんな人?その生涯や息子は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]武者小路実篤:よみがえる作家の声 NHKラジオライブラリー「よみがえる作家の声」シリーズ (NHK CD NHKラジオライブラリー「よみがえる作家の声」シリーズ)

「仲良きことは美しき哉(かな)」や「君は君、我は我也(なり)、されど仲よき」などの名言で知られる武者小路実篤。武者小路実篤は、明治に生まれ、大正から昭和にかけて活躍した「白樺派」を代表する作家です。実篤は、作家として活躍しただけではなく、自給自足で階級闘争のない「新しき村」を設立した人物としても知られています。代表作「友情」をはじめ、さまざまな名作を残した武者小路実篤の人生とはどのようなものだったのでしょうか。エピソードを交えながらご紹介します。

武者小路実篤の生涯

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武者小路実篤の生涯をご紹介します。実篤の長い生涯の中には、多くの出来事があったようです。

誕生から学生時代

武者小路実篤は1885年(明治18年)、東京府東京市(現千代田区)にて、公卿(くぎょう)であった武者小路実世(さねよ)の8番目の子供として誕生しました。8番目と聞くと驚いてしまいますが、現在のように医療が発達していなかったため、実篤の上の5人は幼くして亡くなってしまいました。そして実篤が2歳のときには、父の実世が結核によりこの世を去ります。実世は岩倉使節団としてドイツに2年半滞在し、将来を期待されていた人物でした。

1891年(明治24年)、学習院初等科に入学。そのまま中等科に進み、そのときに生涯の友人となる志賀直哉と出会います。志賀直哉は実篤より2年先輩でしたが、スポーツに熱中しすぎてほとんど勉強しなかったようで、2度の留年の結果、実篤と同級生になりました。
幼い頃の実篤は国語や算数が得意だったそうです。学習院高等科の頃は、ロシアの文豪トルストイに強い関心を示し、トルストイの「理想社会」に心を奪われました。

学習院修了後、1906年(明治39年)に東京帝国大学社会学科(現東京大学)に進学しましたが、文学を志すために翌年1907年に退学。志賀直哉とともに雑誌「野望」を創刊し、その後、有島武郎らとともに「白樺」を創刊します。

文学者としての活躍、そして戦争へ

雑誌「白樺」はとても人気があり、実篤が創刊号で発表した作品は、夏目漱石の作品「それから」についての論評でした。これが夏目漱石の目に留まり、以降夏目漱石とも交友を持つこととなります。しかし漱石が毎週開いていた「木曜会」に参加していなかったため、師弟関係ではないとされています。

「白樺」を創刊後、実篤は1913年(大正2年)に竹尾房子と結婚し、志賀直哉が住んでいた千葉県に居を移します。1918年(大正7年)には、理想的な社会や階級闘争のない社会を目指した「新しき村」が宮崎県に設立されました。その後、宮崎県の「新しき村」はダムの建設が原因で大部分が失われましたが、埼玉県の入間郡にも「新しき村」が設立され、この2つの村は今でも残されています。そしてこの時期に書かれたのが、実篤の代表作である「友情」です。実篤自身が「新しき村」で生活した期間はわずか6年でしたが、離村後は村を存続させるための村外会員として関わりました。

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関東大震災、太平洋戦争、穏やかな晩年

1922年(大正13年)、実篤は房子と離婚し、その後別の女性と再婚します。翌年の関東大震災で生家が焼け落ちる惨事となりましたが、この年に娘が生まれたことがきっかけとなり、ライフワークとなる絵を描き始めます。この時期は、関東大震災の甚大な影響により実篤への執筆依頼がなくなり「失業時代」という苦しい時代を経験しましたが、そんななかでも、トルストイや一休、釈迦についての伝記作品を執筆していたそうです。幼いころから仏典や聖書を読んでいたことから、実篤は宗教的感性が強い人物だったことが想像できます。

1936年(昭和11)年になると、美術や画家のアトリエを訪問するために長期にわたりヨーロッパに旅行にでかけました。しかし旅行中、黄色人種であることから人種差別を受け、実篤は激怒したと言われています。

1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まると、実篤はこれまでの理想主義とは正反対な思想になり、戦争を支持するようになりました。これはヨーロッパ旅行中に人種差別にあったことと、改めて日本文化の素晴らしさを知ったことが原因だったのかもしれません。実篤は戦時中、内閣情報局や大政翼賛会の傘下であった「日本文学報国会劇文学部会長」となり戦争に協力する立場を明確にしました。

※この報国会は小説会・評論随筆会・短歌など8部門に分かれています。メンバーには吉川英治や岸田國士(くにお)など文壇を代表するそうそうたるメンバーがいました。

終戦後の1946年から1951年まで、実篤は戦争への協力が原因でGHQより公職追放とされましたが、追放解除すぐに文化勲章を授与されました。1955年、実篤が70歳になると、東京都調布市に移住し、亡くなるまでの20年間を過ごしました。

性格やエピソード、息子は?

少年時代、おはぎや最中(もなか)、お饅頭などの甘いものが大好きだった実篤。その実篤のあだ名は、まさしく「おはぎ」だったそうです。自分で出す手紙の名前もローマ字で「OHAGI」と書いていたそうで、茶目っ気のある人物であることがうかがえます。

晩年、生涯の友人だった志賀直哉から一本の杖が送られたそうです。杖の先には滑り止めに皮が張られていて、実篤はそれを生涯大切に使いました。「友情」の作者らしい、心温まるエピソードです。

実篤は2度結婚しましたが、息子はできませんでした。その代わり、3人の娘と養女に恵まれました。

死因は??

92歳まで生きた実篤の死因は、尿毒症だったそうです。晩年を過ごした調布の自宅敷地と建物は実篤の死後「実篤公園」と「調布市武者小路実篤記念館」として一般公開されています。

まとめ?

今回は武者小路実篤の人生をご紹介しました。実篤は、その人生でさまざまな価値観に触れ、文学・劇作家・そして画家として活動しました。関東大震災や太平洋戦争などの苦難を乗り越え、一人の人間として生きた武者小路実篤。代表作「友情」の他にも素晴らしい作品がありますので、ぜひご自分の感性に合う作品を探してみてください。

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>>武者小路実篤の作品の特徴及び評価。おすすめ代表作6選

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