葉山嘉樹ってどんな人?その生涯や妻は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]葉山嘉樹 名作全集: 日本文学作品全集(電子版) (葉山嘉樹文学研究会)

葉山嘉樹という作家をご存知ですか?葉山嘉樹は、日本を代表するプロレタリア文学者の1人であり、「淫売婦」や「セメント樽の中の手紙」などの作品で知られています。多くの作品やエッセイを残し、当時の労働者たちのようすや実体験に基づいた作風が読む人の共感を誘います。

小林多喜二に大きな影響を与え、多喜二自身も「私を育ててくれた作品は(中略)、実に貴方の作品でした」と述べています。今回はそんな葉山嘉樹の生涯についてご紹介します。

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葉山嘉樹の生涯

プロレタリア文学の一時代を築いた葉山嘉樹の人生とはどのようなものだったのでしょうか。時代ごとにご紹介します。

誕生から文学者となるまで

葉山嘉樹は、1894年(明治27年)、福岡県豊津(現みやこ町)に生まれました。福岡県立豊津中学校(現福岡県立育徳館高校)を卒業後、1913年(大正13年)に早稲田大学高等予科(※1)に入学します。葉山は女性から人気があったようで、高校時代に付き合っていた女性と駆け落ちを試みますが、校長に説得されて思いとどまったそうです。

早稲田に進学したものの、学費未納による退学となってしまいます。学費については、実家を売ってまで払おうとしましたが、それでも足りなかったそうです。大学を去ってから、葉山は室蘭ー横浜航路の貨物船の乗組員や、鉄道院、学校の庶務課、中央卸売市場の監視員など、短い間に職を転々としました。

1920年代に入ると、名古屋のセメント工場に勤め、労働者の権利を守るために労働組合を作ろうとしましたが、失敗に終わり解雇されてしまいます。1923年(大正13年)には共産党の活動に関与したとして検挙され、名古屋刑務所に投獄となります。投獄中にマルクスの「資本論」に触れ、葉山の代表作となる「淫売婦」や「難破」を執筆しました。

一度は保釈されたものの、1924年(大正14年)に有罪が確定し、東京の巣鴨刑務所へ移送。翌年に保釈され、名古屋での服役中に執筆した「淫売婦」を雑誌「文芸戦線」に発表すると、たちまち話題の作家となります。

翌年1926年(大正15年)に発表した「セメント樽の中の手紙」が好評を博し、葉山は新進気鋭の作家として注目を集めるようになりました。また同時期に執筆した「海に生くる人々」はプロレタリア文学の傑作の一つとされています。

プロレタリア文学にも、「戦旗派」や「文芸戦線派」などのいくつか派閥があったようですが、葉山は「文芸戦線派」に属していました。

※1・予科とは、旧制学校の制度で本科に進む前の予備的教育過程です。

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晩年

1930年代に入ると、今まで以上に日本政府当局の監視が厳しくなります。またこの頃になると葉山の思想に変化が出始め、翼賛体制(※2)に賛成する立場を取るようになります。
1934年(昭和9年)からは長野に移住し、小説やエッセイを書きながら工事現場で働いていたそうです。
1940年代になると、葉山は満州国への移住を計画し、実際に「満州建国勤労奉仕班」の班長として現地入りします。およそ7ヶ月にわたる滞在期間中は、文化指導員や現地の奉仕隊員の慰労などを行いました。一度日本に帰国し再び満州へ入りますが、第二次世界大戦で日本が敗戦となったため、移住の夢は叶わず帰国を余儀なくされます。そして日本へ帰国途中、列車内にて死去しました(死因を参照)。

※2・翼賛体制とは大政翼賛会を中心とする第二次世界大戦の政治体制です。

葉山嘉樹に妻はいた?

調べてみると、葉山の家族関係はそれだけでもドラマになりそうなものでした。まず、1917年(大正6年)、葉山が24歳のころ地元福岡にて山井ヒサエと結婚します。その2年後に娘タミ子が生まれますが、生後わずか6日で亡くなってしまいます。1920年(大正9年)に待望の次女愛子が生まれますが、葉山は別の女性と関係を持ち大問題を起こします。結局、葉山は愛子を引き取りヒサエとは離婚しましたが、愛子もほどなくして夭折してしまいます。

問題となった女性と再婚し2人の男の子を授かりましたが、2人の子供たちも亡くなってしまいました。またも子供を失った葉山は、失意の底にあったと伝えられています。その後1926年(昭和1)、葉山が33歳のときに西尾菊江という女性と出会い、駆け落ちをし、女の子を授かっています。

性格やエピソードは?

若い頃から好奇心旺盛で、女性にモテたようです。葉山は結婚や駆け落ちを繰り返し、たくさんの子供を授かりました。残念なことに子供たちの何人かは夭折してしまいましたが、晩年には娘の百枝とともに満州に向かい移住を計画していました。

プロレタリア文学者として有名になった葉山でしたが、それが災いとなることも多々あったようです。葉山がプロレタリア文学者であったことから、息子の進学先から入学を断られることもあったそうです。

死因は?

晩年の葉山は、満州国の開拓団運動(満蒙開拓移民運動)に関わるようになります。葉山自身も数回にわたり満州国に入り、娘とともに満州で生活することを決めました。しかし第二次世界大戦で日本が敗北したことにより帰国を余儀なくされてしまいます。葉山は日本への帰国途中の列車内において、1945年、脳溢血のためになくなりました。享年51歳でした。遺体は中国の徳恵駅のそばに埋葬され、同行した娘によって遺髪のみが日本へと戻りました。

まとめ

今回は葉山嘉樹の生涯についてお伝えしました。葉山は多くの仕事を転々としながら、そこでの出来事や、自分自身の体験をのびのびとした文体で描きました。そのような意味で、葉山の作品は、思想表現としてのプロレタリア文学というだけではなく、芸術表現としてのプロレタリア文学でもありました。短編集やエッセイなどもたくさん残していますので、ぜひ葉山作品に触れてみてはいかがでしょうか。

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>>葉山嘉樹の作品の特徴及び評価。おすすめ代表作3選

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