アレクサンドル・プーシキンってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]The Queen of Spades (Annotated)

アレクサンドル・セルゲイヴィチ・プーシキン(1799-1837)は、ロシアの近代文学発展に大いに貢献した人物として知られています。
詩や韻文、散文を得意とし、38年という非常に短い人生の中で沢山の作品を残しました。
プーシキンはまだまだこれからという時に凶弾に倒れることになりますが、なぜそのような事態が巻き起こってしまったのか気になる方も多いでしょう。
今回は、アレクサンドル。プーシキンとはどういう人物だったのか、性格やちょっとしたエピソードなども交えてご紹介していきます。

アレクサンドル・プーシキンの生涯について

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プーシキンはロシアのモスクワで、貴族の血をひく両親の元に生まれました。幼少期から高等な教育を受け、成長していきます。

アフリカ系の血を受け継ぐ

プーシキンの父の家系は古い家柄で、名門貴族として知られていました。母の家系も貴族ではありましたが、貴族としての歴史は浅く、母の代でまだ3代目でした。実は、母の祖父、すなわちプーシキンの曾祖父はエチオピア生まれの将軍でした。曾祖父ガンニバルはピョートル一世に寵愛された将軍で、その働きと功績から貴族の称号が与えられたのでした。
プーシキンの肖像画をご覧になったことがある方はご存知でしょう。肌がやや褐色のように見えるのは、プーシキンの中に流れるアフリカの血の現れだったのです。

ちなみにプーシキンの両親は、子育てには全く関わりませんでした。それどころか、子供を放置して、自分たちは日夜社交界に入り浸っていたのです。
これを見かねたプーシキンの祖母(母方)とナニーによってプーシキンは愛情をもって育てられます。この経験は後のプーシキンの作品に大きな影響を与えることになります。

幼少期から勉学に励む

祖母とナニーに可愛がられる傍ら、プーシキンはフランス人家庭教師と共に早くも勉強に取り組みます。ロシア語に加え、フランス語を習得するのも早かったと言います。

12歳になる年にはペテルブルク近郊にある皇帝村に新設された学習院に入学します。この頃からプーシキンは詩の習作に熱中し、詩を沢山書いていました。

16歳になった時、学習院の公開進級試験を受けます。そこで、自作の詩「皇帝村の思い出」を朗読し、見事最優秀賞に輝きます。試験監督の一人で詩壇の元老デルジャーヴィンに大いに祝福されます。

外務院勤務時代

18歳で学習院を卒業したプーシキンは、そのままエリートコースでペテルブルク外務院の翻訳官に任命されました。

仕事の傍らで詩の創作を続けていましたが、21歳になるころには政治詩なども書いて発表し、当局に睨まれることになります。
結果、南ロシアに追放されますが、これを転機と考えたプーシキンは友人を伴ってコーカサスやクリミアなどを周遊しました。

そしてその年の秋に配所キシキョーフでインゾーフ将軍の下に加わりました。

バイロン耽読期

南ロシアで将軍に仕え、多忙な日々を送っていたプーシキンですが、ここでイギリス人作家のバイロンの存在を知ります。

ロシアの詩や韻文にはない、自由で奔放な歌に魅せられたプーシキンはここから2、3年間バイロンの作品を読み漁り、研究しました。

しかし、南ロシアに来て4年が経ち、配属先もオデッサに変わった頃にはプーシキンの心はバイロンから離れていました。

そして今度はシェイクスピアの研究を熱心に取り組むのでした。

ニコライ1世の即位と結婚

1825年の冬、アレクサンドル1世が死去しました。

まもなくニコライ1世が即位したのですが、この機に便乗したデカブリストたちによってデカブリストの反乱が起きます。

プーシキンもデカブリストなのではないかと睨まれていましたが、幸い反乱が起きたときは南ロシアにいて無関係だったため、追放を許されモスクワへと帰還します。

6年目ぶりのモスクワでプーシキンはナターリヤ・ゴンチャロワという美少女に出会い、一目惚れします。
出会った翌年に早速プロポーズを試みますが、まだ16歳という若さの娘を嫁にやりたくない母親に頑なに拒否されます。傷心を抱えたプーシキンはそのままトルコ戦争に従軍します。

振られた翌年、粘りのプロポーズが見事受け入れられ、二人は結婚しました。結婚した翌年からプーシキンが死去するまでの6年間で夫婦は4人の子宝にも恵まれました。

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再び外務院に勤務

プーシキンは生涯、一度として作家活動だけで生計は立てませんでした。常に何らかの職業(役所関係がほとんど)に就き、その傍らで執筆に勤しむ生活スタイルを維持していました。

結婚後は生活を支えるために、不本意ながら再び外務院に勤め、1833年には若年侍従に任ぜられました。これによって宮廷での仕事と義務が増え、宮廷業務が好きではないプーシキンは疲弊していきます。
そんな生活から束の間の自由を求め、単身でミハイロフスコエ村にひきこもるようにもなります。
ここで若手作家との交流、文壇との交流を持ちつつ、執筆活動に励みました。

1836年には雑誌「同時代人」の編集に努力し、4月に創刊号を出しています。これは弟子のゴーゴリーなど、才能溢れる作家たちの活躍の場を提供する目的で作られました。

作家として、文壇として、作品作りはもちろん、後進の育成にもしっかり携わってきたプーシキンの人生は順風満帆のように見えました。

突然の死

1837年2月、プーシキンはフランス人近衛士官のジョルジュ・ダンテースと決闘し、腹部に致命傷を受けます。

これが原因で、決闘から2日後にプーシキンはこの世を去りました。享年38歳でした。

そのあまりにも突然の訃報は愛弟子のゴーゴリーの精神を崩壊させました。

プーシキンの死の真相とプーシキンの美人妻

プーシキンがダンテースと決闘した理由は他でもない、プーシキンの美人妻ナターリヤにありました。

ナターリヤ・ゴンチャロワはスウェーデン貴族の血を引く令嬢で、類稀な美しさで大変有名でした。
ナターリヤがプーシキンに初めて出会ったのは16歳の時でしたが、既にその美貌はロシアの社交界の噂になっていたほどです。

プーシキンは美人な妻ナターリヤを大変誇りに、自慢にしていたので、ちょっかいを出す男共にいつも冷や冷やしていたといいます。
しかし、宮廷仕事が忙しくなってしまったプーシキンは家に帰ることが少なくなり、さらには単身で別荘に引きこもって創作活動に熱中するなど妻を蔑にすることが増えていきました。

そんな中で、以前よりナターリヤの美貌に魅せられていた青年士官のダンテースがナターリヤに近付いたのです。
ナターリヤはダンテースを拒絶したと言われていますが、かねてよりプーシキンの態度が気に入っていなかった貴族官僚たちはこのスキャンダルを見逃しませんでした。
醜聞を広め、プーシキンが決闘するよう仕向けたのです。

プーシキンはプーシキンで、自分は決闘で一度も負けたことがない強運の持ち主だからと強気に出たのが災いしました。
ダンテースの正確な一発を腹に受け、末子の顔を見るか見ないかのうちにこの世を去ってしまったのです。

24歳にして4人の子を抱え、未亡人になってしまったナターリヤはその後、自分の兄弟が所属していた部隊の士官と結婚し、さらに2女に恵まれました。

プーシキンの子供たちはそれぞれ結婚し、子供をもうけました。
中でも末子のナターリアの孫はロシア大公ミハイル・ミハイロヴィチの妻となり、さらにその孫や子供たちはイギリス貴族として今なおプーシキンの血を脈々と受け継いでいます。

まとめ

ロシア近代文学の父ともいわれるアレクサンドル・プーシキンの生涯についてみてきました。
プーシキンは文豪としては珍しく、伴侶にも恵まれ、子宝にも恵まれ、才能にも恵まれ、お金にも恵まれ、何不自由ない人生を送りました。しかし、あまりにも恵まれすぎていたのでしょうか、人生はたった38年しかなかったのです。

38年の間にプーシキンはたくさんの作品、名作を残しましたが、これはきっと彼の人生が実り豊かなものだったことも影響していると言えるでしょう。人生における悩みや日々の悩みがなかった分、作品作りにも没頭できたのでしょう。

まだプーシキンの作品を読んだことがないという方は、ぜひこれを機にプーシキン作品を手に取ってみてください。ドストエフスキーやゴーゴリーとはまた違った毛色のロシアを発見することでしょう。

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