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「走れメロス」や「人間失格」など、誰しも一度は聞いたことがある作品を残した太宰治。今でも国語の授業で勉強するので、どれか一つでも太宰作品を読んだことがある人も多いと思います。感動的な作品を残した一方で、その生涯は波乱に満ちており決して順調とは言えない生涯を送りました。38歳という若さでこの世を去った太宰治の人生とはどのようなものだったのでしょうか。今回は太宰治の生涯についてご紹介します。
太宰治の生涯
太宰治(本名・津島修治)は1909年(明治42)、青森県北津軽郡(現五所川原市)に11人兄弟の10番目の子として生まれました。父・源右衛門は金融業を営む資産家で、1904年の青森県の納税番付で4位になるほどの大地主でした。そんな裕福な家庭に生まれた太宰でしたが、父・源右衛門は仕事に忙しく、母も病弱であったため生まれてすぐに乳母に育てられたそうです。
尋常小学校に入学した太宰はとても優秀な生徒だったようで、「開校一番の秀才」と呼ばれる少年でした。中学校に入学してから文学に目覚め、芥川龍之介や菊池寛、井伏鱒二の作品を読み漁っていました。なかでも井伏鱒二の「幽閉」(のちの「山椒魚)を読んだときには「座っていられないほど興奮した」と感想を述べています。17歳の頃にはすでに同人雑誌の刊行に携わり、200作以上の習作を書いていました。
1927年(昭和2)、太宰は弘前(ひろさき)高校へ入学しましたが、寮生活から逃れるために病弱と偽って津島家の親戚の家から学校に通ったそうです。またこの年の7月に芥川龍之介が亡くなり、そのことがショックで弘前の下宿に閉じこもっていたといわれています。このとき太宰は友人に「作家はこのようにして死なねばならぬ」と言ったそうです。
1929年(昭和4)、弘前高校で起きた事件を元にした「学生群」という作品を執筆し、改造社の懸賞小説に応募しますが落選。この年の12月に自殺未遂し、しばらく療養生活を送っています。
高校卒業後は上京し、東京大学の仏文学科に入学します。しかしフランス語ができず授業についていけなかった太宰は、美術科か美術史科に転部を考えましたが結局は学費未納で除籍となってしまいました(1935年)。大学時代に生涯の師となる井伏鱒二と出会い、以降多くの場面で助けられることになります。また大学時代にも、カフェで知り合った女性と自殺未遂をはかり、女性だけ亡くなるという悲劇が起きています。
作家として本格的に歩み始め、1935年(昭和10)に「逆行」で第一回芥川賞に応募しますが最終選考で落選してしまいます。翌年1936年(昭和11)に、佐藤春夫に芥川賞を懇願する手紙を送っていますが、薬物中毒が深刻化し病院療養を強く言い渡されます。1937年(昭和12)、以前から関係のあった小山初代の不貞を知り、自殺未遂を行っています。
その後、師匠である井伏鱒二の紹介で美知子と知り合い、井伏の媒酌によって結婚しました(1939年)。このとき太宰は「結婚誓約書」を書き真面目に生きることを誓ったそうです。住居も東京の三鷹に移り、しばらくは精神的に安定した生活を送りました。精神的な安定を得た太宰は、代表作「女生徒」や「富嶽百景」、「走れメロス」などの名作を次々と発表します。
1940年代に入り、太平洋戦争に徴兵されそうになりますが、肺を病んでいたため免除されます。戦時中も「津軽」や「御伽草子」などの作品を発表し、執筆意欲が衰えることはありませんでした。東京大空襲後は、美知子の実家の甲府に疎開しましたが、ここでも空襲に合い、最終的に実家の津軽に疎開することになりました。
戦火も落ち着き東京に戻った太宰は、1947年(昭和22)、山崎富栄に出会います。そしてこの年の12月に代表作「斜陽」を新潮で連載し、「斜陽族」という言葉が流行になるほどのベストセラーとなります。翌年1948年(昭和23)には「人間失格」「桜桃」を書き上げ、太宰後期の代表作となりました。この頃は山崎富栄と同居状態にあり、太宰の身の回りの世話は富栄が行っていたようです。
そして1948年6月13日、太宰は富栄と共に玉川上水にて入水(じゅすい)自殺により亡くなりました。太宰の遺体は6月19日に発見され、奇しくもこの日は太宰の誕生日でした。享年38歳。あまりにも波乱に満ちた生涯に自ら幕を降ろした太宰治最後の作品は「グッド・バイ」(未完)です。
性格を物語るエピソードは?
太宰治は学生時代、左翼活動に熱心だったのは有名な話ですが、隠れながら活動していたものの2度も留置所に入れられた経験があります。ある思想に固執するというのは、それだけ実は純粋な精神を持っていたことの表れかもしれません。
また、友人たちの前ではおどけることが多かった太宰ですが、芥川賞の選考の際には選考委員である佐藤春夫に数メートルにも及ぶ懇願書を書いたそうです。強がっているように見せてはいたものの、生涯を振り返るとあまりにも繊細な人物だったことがわかります。
死因について
人生において何度も自殺未遂を行った太宰ですが、その度に失敗しました。太宰治は、晩年に知り合った美容師の山崎富栄と共に、玉川上水にて入水(じゅすい)自殺によって亡くなりました。飛び込んだ場所を調査した三鷹署の署長は、その痕跡から「純然たる自殺とは思えない」との見解を示したそうです。
現場には、入水をためらった後や、滑り落ちるのを止めようとした跡がハッキリと残されており、太宰の死を知った井伏鱒二は周りを顧みず大泣きしたと言われています。
まとめ
今回は太宰治の波乱の生涯についてご紹介しました。今回ご紹介した以外にも、太宰治にはさまざまなエピソードや逸話が残されています。太宰の作品を味わいつつ、その生涯を深掘りするのも楽しみの一つかもしれません。この記事を機会に、ぜひ改めて太宰作品に触れてみてはいかがでしょうか。
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