久生十蘭ってどんな人?その生涯や家族は?性格を物語るエピソードや死因は?

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多彩な作品を残した「多面体作家」久生十蘭。その作品は、探偵小説、推理小説、歴史・時代小説、ノンフィクション小説などに及びます。27歳の若さでフランスに渡り、レンズ工学と演劇を学びました。日本帰国後は、演劇作家・岸田國士と活動を共にしながら、執筆活動を続けました。そして、1952年(昭和27)「鈴木主水」で第26回直木賞を受賞しました。活躍は晩年まで止まることなく、1955年(昭和30)吉田健一による英訳で「母子像」は、「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙主催の第2回国際短篇小説コンクールにおいて、第1席に選ばれました。多種多様な作品を残した「小説の魔術師」十蘭の生涯とエピソードを紹介します。

久生十蘭の生涯

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久生十蘭(本名・阿部正雄)は、1902年(明治35)北海道函館区に生まれました。そして母の実家は回漕問屋を営んでいた裕福な一族でした。その母と番頭頭の父の長男として生まれました。幼い時に両親から離れて、母方の祖父に預けられ育てられました。後に十蘭の両親は離婚しました。

1916年(大正5)、函館区立寶小学校高等科(現在の北海道函館中部高等学校)を卒業しました。そして、北海道庁立函館中学校に進学しますが中退してしまいます。その後、東京の聖学院中学校に編入しますが、またもや中途退学してしまいます。そんな勉学に興味がなさそうな十蘭ですが、その時期、芥川龍之介を密かに「師」と仰ぎ夢中になって彼の作品を読み耽っていました。

1920年(大正9年)北海道に戻りました。伝手をあたって函館新聞社で記者として働きはじめます。記者として仕事を始めたものの、演劇に興味を抱き没頭していきます。1923年(大正12)函館の新聞記者と短歌団体と同人グループ「生社」を結成しました。そして1926年(大正15)、処女小説「蠶」と処女戯曲「九郎兵衞の最後」を発表しました。その頃、新聞の文芸欄の編集や執筆の仕事をしながら、そこでも作品を発表していました。

大きな転機が訪れたのは、1928年(昭和3)でした。東京では、フランス帰りの新鋭気鋭の劇作家・岸田國士が、「演劇新潮」に「古い玩具」をはじめとする作品を発表して、注目を集めていました。そこで、上京することを決めました。そして、岸田に師事し、岸田が主催する「悲劇喜劇」の編集を務めることになりました。

そして、新たなターニングポイントが訪れました。フランスへ遊学することを決断しました。1929年(昭和4)から1933年(昭和8)までフランスのパリでレンズ工学と演劇を学びました。パリ私立技芸学校で演劇を勉強しているときにシャルル・デュランに出会い、彼から教えを受けたと言われています。

1933年(昭和8)日本に帰国しました。そして、東京の青山で母と暮らし始めました。その後、新築地劇団の演出部に入り、舞台監督を務めました。しかし、早期に劇団を脱退しました。

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その頃、「新青年」の編集長をしていた水谷準と出会います。水谷からその雑誌への執筆を依頼されました。当時の「新青年」では、探偵小説家の江戸川乱歩や横溝正史や小栗虫太郎などが作品を発表して活躍していました。その年、トリスタン・ベルナールの「天哲」、「夜の遠征」、「犯罪の家」を翻訳したものを同誌に発表します。そして、1935年(昭和10)初めての本格的小説「黄金遁走曲」を発表しました。その翌年、「金狼」の発表を機に主に「久生十蘭」と名乗るようになりました。それ例外にも谷川昇や六戸部力などの数十にも及ぶ筆名を使用していました。

1936年(昭和11)劇作家・岸田國士の推薦で明治大学文芸科の講師を務めました。また、岸田國士が立ち上げた文学座に参加します。文学座で劇を演出しながら、執筆するという多忙な日々を送りました。原稿料で軽井沢千ヶ滝に別荘を購入したと言われています。そして、そこで「魔都」が執筆されました。

1939年(昭和14)、「新青年」の12月号から1月号に記載された「チャラコさん」で新青年読者賞を受賞しました。その翌年、「葡萄蔓の束」第11回の直木賞候補に選ばれました。その後も数回に渡って別の作品で直木賞候補に選ばれました。

またその年には、岸田が大政翼賛会の文化部長に就任したのを機に、文化部嘱託として活動に参加します。翌年、「新青年」の依頼で陸軍に従軍することになりました。従軍中も筆を走り続けました。

そして、私生活に転機がやってきました。1942年(昭和17)、作家の大佛二郎夫妻の仲人により三ツ谷幸子と結婚しました。

その翌年、新婚生活を早々に、海軍の報道班として南方に派遣されました。一時は行方不明になりましたが1944年(昭和19)無事帰国しました。その後、銚子へ疎開しました。

そして晩年は、母の同居のもと鎌倉の木材座で過ごしました。終戦後も筆を休めることはありませんでした。1952年(昭和27)「鈴木主水」で第26回直木賞を受賞しました。その後も活躍が続きました。1954年(昭和29)に「母子像」を発表。翌年、吉田健一による英訳で、「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙主催の第2回国際短篇小説コンクールにおいて、第1席に選ばれました。

1957年(昭和32)体調の不調を訴えました。その後、食道癌のため東京の癌研究所へ入院しました。その年の秋に、自宅にて食道癌のため亡くなりました。享年55歳でした。

性格を物語るエピソードは?

●1917年(大正6)、15歳の十蘭は事件を起こした為、中学校を退学処分になりました。その事から、多感な思春期を送っていたことが窺えます。

●私生活を明かさないことで有名だった為、プライベートはいまだに謎に包まれています。

死因について

1957年(昭和32)、食道の異常を訴えました。そして6月に東京の食道癌研究所に入院しました。その年の10月、食道癌のため鎌倉の自宅で亡くなりました。享年55歳でした。

まとめ

久生十蘭の生涯とエピソードを紹介しました。函館新聞社で記者として働き始めてから、彼の人生はめまぐるしく展開していきました。演劇や小説、そして翻訳の世界で次々に作品を発表して活躍しました。彼の作品のジャンルは多岐に渡ります。そんな「多面体作家」十蘭の作品を手に取って読んでみては、いかがでしょうか。

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>>久生十蘭の作品の特徴及び評価。おすすめ代表作3選

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