堀辰雄ってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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堀辰雄という作家をご存知ですか?。堀辰雄はジブリアニメ「風立ちぬ」のモデルとなった人物で、堀辰雄自身の代表作でもあります。明治に生まれ、芥川龍之介に師事した堀は、48年という短い生涯ながらも、数々の名作を残した日本を代表する作家の一人です。そんな堀辰雄の人生とはどのようなものだったのでしょうか。今回は、堀辰雄の生涯をご紹介します。

堀辰雄の生涯


堀辰雄の生涯をご紹介します。短い生涯ではありましたが、堀にとっては人生そのものが一つの物語だったのかもしれません。

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幼少時代から学生時代

堀辰雄は、1904年(明治37)に父・浜之助と母・志気の子として東京の麹町に生まれました。生まれ年が「辰年」だったので「辰雄」と名付けられたそうです。しかし辰雄が生まれたとき、父・浜之助には故郷の広島に「こう」という妻がいたため、生みの親である母・志気は家出し、松吉という人物と再婚します。松吉は愛情深い人物だったようで、本当の父親のように辰雄を育て、松吉が亡くなるまで「実の父ではない」ことを知らなかったそうです。

1917年(大正6)、旧制中学に入学した辰雄はとても優秀で、本来であれば卒業に5年かかるところを4年で卒業します。この頃の辰雄は、数学者を夢見ていたようですが、今で言う「飛び級」をしてしまったため、数学がわからなくなり断念します。その後、高校に入り文学に目覚めた辰雄は、荻原朔太郎(おぎわらさくたろう)の詩集を夢中になって読んだそうです。

1923年(大正12)、関東大震災で母を亡くした辰雄は悲しみに沈み、辰雄自身も肋膜炎(ろくまくえん)に罹るなど不運が続きましたが、この年に大きな出会いが訪れます。それが芥川龍之介との出会いです。以前から知り合いだった作家の室生犀星(むろうさいせい)の紹介でした。辰雄は室生と芥川に弟のように可愛がられたそうで、軽井沢にいる芥川をたびたび訪ね、その模様を作品に残しています。やがて辰雄は、芥川に師事するようになりました。

1925年(大正14年)、東京帝国大学国文学科に入学した辰雄は、本格的に作家の道を志すようになります。1927年(昭和2年)、初期の代表作である「ルウベンスの偽画」を発表しますが、この年の7月24日、心から尊敬した芥川の自殺という訃報を受け辰雄は大きなショックを受けます。辰雄自身も再び肋膜炎を患い体調を崩しますが1929年(昭和4)、大学を卒業します。そのときの卒業論文は「芥川龍之介論」でした。

作家として

芥川の死は辰雄に深い悲しみをもたらしましたが、ここから辰雄は作家として意欲的に活動します。1929年には川端康成や横光利一らとともに雑誌「文學」を創刊。その翌年の1930年(昭和5)には、芥川の死の衝撃から(ある意味では自分を納得させるため)、「聖家族」を執筆し文壇から高い評価を受けます。しかしこの作品を発表後にまたも体調を崩し、自宅療養を余儀なくされました。療養中はマルセル・プルーストの「失われたときを求めて」を読んでいたそうです。そして、プルーストの技法が後の辰雄の作品に影響を与えています。

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1933年(昭和8)、軽井沢にて油絵を描く少女・矢野綾子と出会い、このときの体験を元に中編小説「美しい村」を発表。その後綾子と婚約しますが、結核を患っていた綾子は1935年(昭和10)にこの世を去ります。綾子との別れによって書かれた作品が、辰雄の代表作「風立ちぬ」です。

1930年代後半になると、辰雄は日本の古典文学に傾倒するようになり、民俗学者の折口信夫(釈迢空)から教えを受け、古典文学を題材にした作品を執筆するようになります。
その代表作が「蜻蛉(かげろう)日記」をベースにした「かげろふの日記」です。1940年代には、初の長編小説「菜穂子」を発表し第1回中央公論社文芸賞を獲得するなど、作家として成功の道を歩みます。

晩年

太平洋戦争の足音が聞こえるなか、辰雄は疎開のために信濃追分(しなのおいわけ)へ引越しの準備をしますが、準備途中に喀血(かっけつ)してしまいます。医者から絶対安静を命じられ、1944年(昭和19)9月、ようやく信濃追分の借家に疎開します。身体がじょじょに衰弱するなか、辰雄は執筆を続け1946年(昭和21年)、「雪の上の足跡」を雑誌「新潮」に発表し、以降は療養生活となりました。

日本の古典文学を題材にした作品を構想していましたが、その夢は叶わず、1953年(昭和28)5月、辰雄は帰らぬ人となりました。享年48歳という若さでした。川端康成が葬儀実行委員を勤め告別式が行われました。

性格を物語るエピソードは?

堀辰雄は、芥川龍之介からとても可愛がられていたようで、「辰っちゃんこ」の愛称で呼ばれていたそうです。また、芥川を介して知り合った片山総子に恋をし、代表作の一つ「ルウベンスの偽画」の登場人物のモデルにしていますが、総子を巡ってある作家と三角関係になりナイフを突きつけられたこともあると言われています。
多くの美しい恋愛小説を残した堀辰雄ですが、実生活では危ない場面がいくつかあったようです。

死因は?

堀辰雄の死因は、肺結核でした。長野の信濃追分の自宅で亡くなりましたが、6月に東京の増上寺で執り行われました。辰雄の死後、友人だった神西清や弟子などによって、「堀辰雄全集全7巻」が新潮社より刊行されました。その後、川端康成により書簡集も加えた全集が再編されています。

まとめ

今回は、堀辰雄の生涯をご紹介しました。芥川やフランス文学から影響を受けた堀の文章は、人間の内面的意識を深掘りした「心理小説」が特徴です。また、美しい作品でありながら、読む人に問いかける「哲学的な」感じがとても印象的な作家です。青空文庫にも出ていますので、ぜひ一度読んでみてください。

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