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近代日本を代表する演劇作家・小説家・翻訳家の岸田國士。軍人の父の元に生まれ、軍人になることを望まれました。しかし、学校に通う中で軍隊の生活や軍人気風に違和感を覚えます。ちょうどその頃、フランス文学に目覚めていきます。そして父親の猛反対を押し切って「軍人の世界」から「文学の道」へ進みました。
東京帝国大学に進み、フランス文学や近代演劇を学びます。その中でフランス近代戯曲引かれ、フランスに渡ることを決意します。フランスでは、ジャック・コポーが主宰する小劇場『ヴィユ・コロンビエ座』に通うなどして演劇史の研究に没頭しました。日本に帰国後、処女戯曲『古い玩具』を皮切りに日本の演劇界に新風を巻き起こしました。西洋演劇に影響を受けた「新しい演劇」を広めることに努めました。
國士の活動は演劇だけに止まらず、小説、翻訳の世界にも広がりました。そんな多岐に渡る芸術活動をした演劇作家・岸田國士を紹介します。
生涯
岸田國士は、1890年(明治23年)東京市四谷区(現在の東京都新宿区)に生まれました。父は旧紀州藩の家系で、陸軍の軍人でした。東京の小学校に入学するも、父の転勤に伴って名古屋に引っ越しました。1902年(明治35年)名古屋第二高等小學校に入学しました。1904年(明治37年)東京にある陸軍中央幼年学校に進学しました。
しかし、軍隊の生活や軍人気風に反発を覚えました。その頃から、文学に傾倒していきます。1910年(明治43)陸軍中央幼年学校を卒業しました。そして、士官候補生として久留米歩隊第48隊に配属されました。その年の12月、陸軍士官学校へ進学しました。1912年(明治45)陸軍士官学校を卒業。その年の12月、久留米歩隊第48隊で少尉に任命されました。
しかし、軍人生活は長く続きませんでした。以前から抱いていた軍人生活の嫌気と文学への思いが断ち切れず、休職願を出しました。その後、2度と軍服を着ることはありませんでした。1917年(大正6)東京帝国大学仏文化選科に入学しました。大学では、後に日本の仏文学をリードする鈴木信太郎、辰野豊、そして小説家・豊島与志雄と交流を深めました。
1919年(大正8)フランス近代戯曲に引かれ、フランスに渡ることを決めました。長旅を経て翌年フランス・マルセイユに到着しました。そして、パリに移動しました。ジャック・コポーが主宰する小劇場ヴィユ・コロンビエ座に通うなどして、フランス演劇史の研究に没頭していきました。その傍、生活のために日本大使館の国際連盟事務局で嘱託として働きました。1922年(大正11)父親の訃報を受けて、1923年(大正12)日本へ帰国しました。
父の喪失に國士の筆が止まることはありませんでした。翻訳家の豊島与志雄に処女戯曲『古い玩具』をみせました。そして、与志雄は小説家の山本有三に意見を求めました。それをきっかけに1924年(大正13)山本有三が編集した『演劇新潮』の3月号に『古い玩具』で文壇にデビューしました。
『古い玩具』は、注目を集めました。同年の9月、同雑誌に『チロルの秋』を発表されました。その年の終わり、小説家・川端康成を発起人した文芸雑誌『文藝時代』に参加しました。『文藝時代』は、第1次世界大戦期に興った新しい芸術運動・ダダイズム、アバンギャルド、そしてドイツ表現主義に触発されて創刊された文藝雑誌です。小説家・川端康成を発起人して、新主観的な新しい感覚表現を求めました。
同人には、小説家・横光利一などがいました。1924年の文壇デビュー以降、國士は作品を次々と発表していきました。1925年(大正15)戯曲『紙風船』などを発表。また、私生活では1927年(昭和2)翻訳家・村川秋子と結婚しました。1929年(昭和4)戯曲『牛山ホテル』を『中公論』に発表しました。
プライベートでは、後に詩人・童話作家になる岸田衿子を授かりました。そして翌年、後に女優になる次女・岸田今日子を授かりました。創作活動は止まることはありませんでした。1937年(昭和17年)久保田万太郎、岩田豊雄と文学座を結成しました。
その年、出版社・『文藝春秋』の特派員として日中戦争の取材へ向かいました。戦争の取材から帰った國士は、明治大学文芸科長に就任しました。そして、演劇映画科を新設しました。1940年(昭和15)明治大学文芸科長を辞職しました。そして、政治結社・大政翼賛会の文化部長に就任しました。1942年(昭和17)政治結社・大政翼賛会の官僚化にともない文化部長の座を去りました。
1950年(昭和25)「小説」と「演劇」を結びつけ、奥行きのある総合芸術を作り上げることを目的とした「雲の会」を立ち上げました。同人には、三島由紀夫、福田恆存、木下順二など日本を代表する小説家、演劇家がいました。1951年(昭和26)戯曲『カライ博士の臨終』を発表しました。
翌年、小説を執筆中に脳卒中で倒れ、病院に運ばれました。その後、順調に回復してその年の5月に病院を退院しました。創作活動に復帰していた矢先、1954年(昭和29)再び脳卒中で倒れます。それは、一ツ橋講堂で舞台稽古の監督中に事故は起こりました。その後、東京大学医学部付属病院に運ばれました。しかし、その翌日に脳卒中の為、亡くなりました。享年63歳でした。
性格を物語るエピソード
●軍人の父に猛反対されても、文学の道を志した様子から「意志」が大変強かった様子が窺えます。
●次女・岸田今日子が國士に「女優になりたい」と言った際、基礎的な教養として、フランス語と舞踏を学ぶことを条件に許可したというエピソードが残っています。そのことから、娘と真剣に向き合いながらも「厳しい父親」だった一面が垣間見られます。
死因について
1954年(昭和29)神田一ツ橋講堂で舞台稽古の監督中に、脳卒中で倒れました。すぐに東京大学医学部付属病院に運ばれました。しかし、その翌日に脳卒中の為、帰らぬ人となりました。
まとめ
父親に軍人になることを望まれた岸田國士。学校生活の中で文学に目覚め、「フランス文学」は彼の人生を変えました。そして、國士は日本近代を代表する演劇作家・小説家・翻訳家になりました。様々な芸術活動を通して、日本の旧来の歌舞伎に由来する演劇に新しい西洋の演劇に影響を受けた劇「新劇」を提案しました。日本の演劇界に新風を巻き起こした岸田國士を紹介しました。
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