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梶井基次郎は、代表作「檸檬(れもん)」の作者として知られ、国語の授業で勉強した方も多いのではないでしょうか。梶井は20世紀の始めに生まれ、31歳という若さで亡くなりましたが、梶井の鋭敏な感性や表現方法は後世の作家たちに大きな影響を与えました。そこで今回は、梶井基次郎の波乱の人生をご紹介します。
梶井基次郎の生涯
梶井基次郎の生涯をご紹介します。梶井は日記をつける習慣があったようで、エピソードがたくさんありますが、人生の大きな流れをご紹介します。
少年時代から大学時代
梶井基次郎は、1901年(明治34年)大阪府大阪市に生まれました。父・宗太郎は貿易運送会社で軍需品輸送の仕事に携わり、母・ヒサはとても教育熱心な人物だったようです。そんな母の影響があってか、梶井は幼い頃から古典文学に親しんでいました。
父の仕事の都合で東京や三重に移住するなど、子供の頃は各地で学生生活を送りました。その間、父の酒癖の悪さや金遣いの荒さで一家が困窮に追い込まれることもあったそうで、母・ヒサは「子供たちと川に身投げしようと思った」と回想しています。
各地を転々とした梶井でしたが、成績優秀で、音楽の先生から楽譜の読み方を習ったりなど、好奇心旺盛な学生だったようです。
1913年(大正12)、12歳のときに祖父母が死去しましたが、肺結核だった祖母が舐めた「飴の回し食い」が原因で、梶井自身も肺に病を抱えることになってしまいます(そしてこれが梶井の人生を決定的に左右します)。
年齢を重ねるにつれて、梶井の結核の症状は強くなります。17歳のときにはすでに学校を休みがちになっていたそうですが、兄から渡された森鴎外の小説やアンデルセンなどを読み文学に目覚め始めます。また夏目漱石を愛読し、とくに「明暗」を夢中になって読んだそうです。
1919年(大正8)、なんとか第三高校(現京都大学人間総合学部)に入学しますが、体調不良や無理な生活が祟り、2度の留年を経験します(1923年)。この時期の梶井は、オペラ鑑賞や劇研究会に入会し舞台を行うなど、積極的に創作活動に参加します。また、有島武郎の訃報を聞いてとても大きなショックを受けたそうです。
1924年(大正13)に東京帝国大学英文科に入学。翌1925年(大正14年)に仲間たち6人と雑誌「青空」を創刊し、作家として生きることを決意します。この第1号に梶井が掲載した作品が、代表作「檸檬」です。
作家として
雑誌「青空」を創刊したのはよかったものの、文壇からはあまり相手にされませんでした。焦った梶井は、いろいろと策を練りますが、目立った宣伝にはならなかったようです。そんななか、梶井の体調はますます悪化の一途をたどります。その後、雑誌「青空」のメンバーはさまざま入れ替わり、16号からは作家の三好達治も加わりました。
1926年(昭和元年)、梶井は「青空」に「Kの昇天ーー或いはKの溺死」を発表。しかし体調が悪化した梶井は喀血(かっけつ)を繰り返すようになり、三好達治の助言で伊豆での療養生活を始めます。一度は伊豆に向かった梶井でしたが、湯が浜温泉にいた川端康成を尋ね、川端康成の代表作「伊豆の踊り子」の出版の校正を手伝ったそうです。そして1927年(昭和2)、ついに雑誌「青空」は廃刊となってしまいます。
晩年
1929年(昭和4)に父・宗一郎が心臓麻痺で急逝しましたが、同時に梶井自身も深刻な体調悪化となっていきます。1930年には父の一周忌にも参加できないほどになりましたが、梶井は命を振り絞るように執筆活動に取り組みます。
1931年(昭和6)に発表した「交尾」が雑誌「作品」に取り上げられ、作家の井伏鱒二から「神業の小説」と絶賛されます。これにより少しずつ印税を受け取れるようになりましたが、梶井の体調はいよいよ末期的な症状となります。
この年の11月、命を振り絞りながら「のんきな患者」の執筆を始め、12月に完成。1932年(昭和7)、「中央公論」1月号に作品が掲載され、正宗白鳥が新聞の書評で褒めるなど好評を博しました。しかし梶井の体力も限界に達し、1932年3月24日、肺結核によりこの世を去りました。31歳というあまりにも短い生涯でした。
性格を物語るエピソードは?
梶井の人生はエピソードの宝庫と言えるほど多くのエピソードを残しています。父に似て酒癖が悪く、例えば、
・酒場で酔って他の団体客の宴会に全裸で乗り込みケンカをした
・焼き芋屋の中に牛肉を放り込む
・ラーメン屋の屋台をひっくり返す
・ヤクザと喧嘩してビール瓶で頬を殴られる
・仲間と共に泥酔して警察に捕まる
など多くの伝説を残しています。
また五感がとても優れていたらしく、とくに一丁(約109メートル)離れた花の匂いもわかるほどの嗅覚の持ち主だったそうです。
「檸檬」で知られる梶井は、実際に「レモン」が好きだったようで、喫茶店に行くとレモンティーやレモンを入れた炭酸水を好んで飲んでいました。
死因は?
31歳で亡くなった梶井は、子供の頃から肺の病に悩まされていました。その原因とされているのが、肺結核に罹っていた祖母が舐めていた「飴の回し食い」です。10代後半になると結核の症状が強くなり、晩年は呼吸もままならなくなってしまいました。最後は酸素吸入も使えない状態になり、「狂人のように苦しんだ」とされています。1932年3月23日、死を悟った梶井は、母に対して次のように述べたそうです。
「悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と。そして手を合掌させ、静かに目を瞑り、その頬には涙がつたっていたと言われています。そしてその晩、梶井は意識不明となり24日深夜2時、31年という短くも太い生涯に幕を降ろしました。梶井の命日の3月24日は「檸檬忌(れもんき)」とされ、長く親しまれています。
まとめ
今回は梶井基次郎の生涯をご紹介しました。梶井は日記をつける習慣があったようで、そこから梶井の人生を垣間見ることができます。今回ご紹介した以外にもメチャメチャなエピソードがたくさんある作家です。梶井の作品はもちろんのこと、梶井が歩んだ人生を調べてみるのも面白いかもしれません。
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