出典:[amazon]夫婦のルール
三浦朱門という作家を知っていますか?三浦朱門は2017年に91歳で亡くなった、大正生まれの人物で、文化庁長官などを務め教育課程審議会会長としてゆとり教育を推進したひとりでもあります。物議を醸す発言もありながら、多くの著作や受賞歴もあり、妻の曾野綾子との仲睦まじさも有名です。
今回は、三浦朱門の生涯や家族、性格を物語るエピソードをご紹介します。
三浦朱門の生涯
ここでは、91歳で亡くなるまでの三浦朱門の生涯をみていきます。
誕生から終戦まで
三浦朱門は1926年(大正15年)に、現在の東京都中野区で生まれました。父はイタリア文学者の三浦逸雄です。野方第五尋常小学校そして、東京府立第二中学校から旧制高知高等学校へ進学。高等学校在学中は、厭戦的な態度を示し煙草を吸い、無期限の停学処分になったといいます。
時は太平洋戦争の只中にあり、朱門は1945年に勤労動員され7月に千葉県我孫子で入隊し、千葉県の仮兵舎で終戦を迎えました。
作家活動の開始と結婚
終戦後に復学し、1948年東京大学文学部言語学科を卒業します。1950年には第17次『新思潮』に参加し「冥府山水図」を発表すると「芥川の再来」と呼ばれ、さらに1952年の「斧と馬丁」で芥川賞候補となり、作家活動を本格的に開始します。
1953年には、文学つながりで知り合った曾野綾子(三浦知壽子)と結婚し、夫婦ともに”第三の新人”と呼ばれています。
作家と大学勤務時代
父の口利きで1948年から、日本大学芸術学部非常勤講師となり、助教授を経て1967年には教授となりますが、作家としての収入が教授の給料の数倍に達したこともあり、モチベーションが下がっていったことが態度にも表れ、同僚から反感を買うようになったそうです。そして1969年の日大紛争の際に辞職しました。
大学教授をしながらも、1967年『箱庭』が新潮社文学賞を受賞し、1983年には『武蔵野インディアン』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。また1970年にはカトリック教会の活動に貢献した一般人を顕彰するバチカン・聖シルベスト勲章を受章しました。
大学退職後~晩年
日大は去ったものの、のちに中部大学女子短期大学の教授そして学長を務めました。1985年には文化庁長官に就任し、さらに1987年に日本芸術院の会員になり、2004年には院長に選出され10年間務めました。1999年には文化功労者に選ばれます。
また教育課程審議会会長としてゆとり教育に舵を切った新学習指導要領の答申の最高責任者として関わり、妻とともにゆとり教育の導入に尽力しました。
晩年は、1年間の妻の自宅介護を経て入院し1週間以上眠り続けたのち、2017年2月3日に間質性肺炎のため91歳で死去しました。
三浦朱門の家族と本名
三浦朱門の「朱門」は本名で、イタリア文学者の父が「シモン・ペテロ」から取ったそうです。
三浦朱門の妻・曾野綾子
曾野綾子は本名を町田知壽子といい、1931年生まれの作家です。三浦朱門と同じカトリック教徒で、朱門とは22歳のときに結婚しました。『遠来の客たち』が芥川賞候補に挙げられ、出世作となりました。
三浦朱門の息子・孫
息子の三浦太郎は文化人類学者で、曾野綾子の『太郎物語』のモデルにもなっています。この『太郎物語』は1980年にNHKドラマ『太郎の青春』として放送されました。太郎の妻はエッセイストの三浦暁子で、恋愛論や結婚論などを執筆しています。また孫は複数人いるそうで、三浦朱門の晩年にも駆けつけたといわれています。
三浦朱門の性格を物語るエピソード
三浦朱門といえば健啖家としても有名で「食前食後に飯を食う」と言われるほどだったといいます。アメリカの留学時代に、知人にディナーに招待されていたことを忘れてレストランで腹一杯食べた後も、ディナーでのフルコースを平らげたというエピソードがあります。
また1972年に田園調布の自宅に不審者が押し入った際に、隙を見て蹴飛ばして追い出したという豪胆さもみられます。
まとめ
2017年に91歳の生涯を閉じるまで、数々の作品を世に出し、文化庁長官やゆとり教育推進にも尽力した三浦朱門。小説からエッセイ、2000年代に入ってからは妻との対談や家族、老いについての著作が多く、人生観や生き様が感じられる作品が増えます。読みやすい本も多いですので、これを機に三浦朱門の作品に触れてみてはいかがでしょうか。
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