出典:[amazon]永井荷風 名作全集: 日本文学作品全集(電子版) (永井荷風文学研究会)
永井荷風(ながい・かふう)は、明治時代~昭和時代を生きた作家で、本名は永井壮吉といいます。79年にわたる生涯で、短編小説集「あめりか物語」や日記「断腸亭日乗」など数々の作品を世に出し、その作風は耽美派と呼ばれています。森鴎外や夏目漱石、谷崎潤一郎などとも交流があり、文化勲章受章も受章する一方、結婚生活はうまくいかず、女好きで気ままな一人暮らしという人間味あふれる人物です。
この記事では、永井荷風の生涯や性格、家族などについて紹介します。
永井荷風の生涯
誕生から海外生活まで
永井壮吉(荷風)は1879年(明治12年)東京市小石川区で生まれました。父はエリート官吏で、母は儒者鷲津毅堂の娘でした。荷風は鷲津家に預けられ祖母の愛情をうけて育ちます。
15歳の時病気のため休学しますが、『水滸伝』や『東海道中膝栗毛』などを読みふけり、文学へ目覚めるきっかけとなります。「荷風」という雅号を使い始めたのもこの頃で、病院の看護婦の名前にちなんでつけたといわれています。19歳になると広津柳浪に師事し、小説家を目指す一方、落語家や歌舞伎作者の修行もしました。
24歳の頃、父の意向で実業家になるためにアメリカへ。フランス語を学びながら日本大使館や横浜正金銀行に勤めますが、なじめずフランスへ行くものの、リヨン支店も8ヶ月で退職します。オペラや演奏会に通うなど気ままな外遊生活でしたが、この経験が荷風の世界観をかためたともいえるでしょう。
帰国すると、『あめりか物語』を発表し評判を得ます。翌年の『ふらんす物語』と『歓楽』は風俗を乱すものとして発売禁止とされますが、のちに刊行されました。
大学教授就任から気ままな一人暮らし生活へ
上田敏・森鴎外の推薦により、31歳で慶應義塾大学教授に就任し、ハイカラー・ボヘミアンネクタイというファッションでの型破りな講義が好評を呼びます。この頃の荷風は、詩集『珊瑚礁』や『三田文学』の編集をにない、谷崎純一郎や泉鏡花、森鴎外や西園寺公望などとも交流がありました。
1912年には、商家の娘と結婚するものの、翌年の父の死亡をきっかけに離婚し、さらに新橋の芸姑との結婚も続かずにふたたび離婚。このようなふるまいが弟や親戚との関係を悪化させてしまいました。
1916年に健康を理由に大学教授を辞職し、麻布の偏奇館と名付けた洋館で、気ままな一人暮らしがはじまります。荷風が亡くなるまで綴られた日記『断腸亭日乗』がはじまったのもこの頃です。
関東大震災後の新風俗に好奇心をもった荷風は、40代後半頃から銀座のカフェーに出入りし、『つゆのあとさき』や『ひかげの花』など新境地の作品を生み出します。さらに、玉の井の私娼街から着想を得た『濹東綺譚』が出たり、作曲家菅原明朗と歌劇『葛飾情話』を作って浅草オペラ館で上演するなど話題にのぼりました。
第二次世界大戦勃発から晩年
1945年荷風が66歳のとき東京大空襲により書斎・偏奇館が焼失し、明石市、そして岡山市へと逃げのびます。岡山の日々は散策と日記がおもな日常でしたが、不安神経症の症状に悩まされたといいます。
戦後、帰京したものの、インフレや預貯金封鎖により、いとこの大島一雄や小西茂也など知人の家に身を寄せることを余儀なくされます。しかし一人暮らしに慣れきっていた荷風は、同居人にとって迷惑な存在だったようで、1948年69歳のときに菅野に家を買い一人暮らしに戻りました。
73歳になった荷風は文化勲章受章そして、翌年日本芸術院会員になるという名誉を受けましたが、あいかわらず浅草へ通い、フランスやアメリカの映画をみるといった日々でした。
その後市川市に転居し、1959年4月30日、79歳で亡くなりました。荷風は通いの手伝い婦が発見し、最後の晩餐はカツ丼であったといわれています。
家族や子孫は?
荷風の父は、内務省衛生局事務取扱の永井一郎で、のちに日本郵政に天下るエリートでした。
母は鷲津毅堂の娘です。鷲津毅堂は尾張藩出身の儒学者であり、その生涯は、荷風の著書『下谷叢話』に詳述されています。
弟は貞二郎といい、母と祖母が普及福音教会の信徒でもあったため、三菱銀行に勤めたのちキリスト教の牧師になり山梨教会や水戸教会などを歴任します。母方の鷲津家の養子になりました。
三男の威三郎は、農商務省に入り、アメリカやドイツに留学し、東京高等農林の教授になります。
荷風には子どもはいませんでしたが、養子永光(ひさみつ)がいます。永光は荷風の従兄弟、大島一雄の息子で、1944年に養子にむかえました。荷風の没後、荷風旧宅にて家屋や遺品を守り続け、作家やバー店主をしているそうです。
死因
荷風は、1959年3月1日浅草で昼食中にほとんど歩けなくなり、その日以来自宅近くで食事をとる以外は家に引きこもり、医者も受け付けなかったといいます。そして4月30日に79歳で亡くなりました。死因は、胃潰瘍に伴う吐血による心臓麻痺といわれています。
エピソード
歌劇『葛飾情話』に出演したアルト歌手、永井智子と作曲家の菅原明朗が結婚し、荷風とは夫婦ぐるみの付き合いになります。東京大空襲の際も荷風は菅原夫婦とともに岡山市へ疎開し、東京へは3人で戻ろうと約束していました。しかし、終戦を知った荷風は必死で切符をとり、単身帰京してしまったのです。裏切られたと感じた智子はこの日以来荷風には会わなかったそうです。
まとめ
いかがでしたか?明治~大正~昭和という時代の移り変わりのなかで、自分を貫き、さまざまな作品に昇華させていった荷風は、79歳という往生をとげました。若い頃のアメリカフランス外遊や江戸文学のエッセンスをベースにしながらも、荷風の人生や当時の社会の様子が垣間見られる、どこか自由で美しい作品に、触れてみてはいかがでしょうか?
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