松井秀喜の現在。英語力はどうなの?名言を知りたい。

出典:エキストラ・イニングス 僕の野球論 (文春文庫)

読売ジャイアンツの監督候補に挙がりながら、選ばれる事は無かった松井秀喜さん。しかし、未だに現役復帰が出来るのでは?と思っている人も少なくないはずです。今回は松井秀喜さんを掘り下げていきます。

プロフィール

  • 氏名 松井秀喜
  • 生年月日 1974年6月12日
  • 血液型 O型
  • 出身地 石川県 能美郡根上町
  • カテゴリー 元メジャーリーガー

現在。英語力はどうなの?名言を知りたい。

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松井秀喜さんを語るには、高校時代から語っていく必要があります。松井秀喜さんというと、高校時代から有名でゴジラのあだ名を付けられていました。そして高校通算のホームラン数が50本と少ないですが、忘れる事が出来ないエピソードがあります。

それは、5打席連続敬遠です。敬遠と聞くと野球に詳しくない方は何のこと?と思うかもしれませんが、敬遠とは、勝負したくない打者に対してボール球を4球投げて一塁ベースに歩かせる行為です。正々堂々勝負をする事が当たり前の高校野球において過度に敬遠を選択する事はありません。

しかし、事件は起こってしまいました。それは1992年8月16日、夏の高校野球74回大会2回戦 星陵高校 対 明徳義塾高校戦です。当時松井秀喜さんは高校3年生で所謂最後の夏を戦っていました。

相手校明徳義塾高校は、松井秀喜さんとまともに勝負したらホームランを打たれ勝てる確率が下がるであろうと、考えたと思います。そのため松井秀喜さんの打席を全て敬遠とする事を決めたのだと考えています。

因みに敬遠(ボール球を4球投げ1塁に歩かせる行為)は野球のルール上正当な作戦のため問題は無いのですが、結果的に5打席全てを敬遠する事になり明徳義塾は勝ったため、その行いに対し非難が集中、社会問題へと発展しました。

松井秀喜さんの高校野球の戦績は夏の大会2回戦止まりとなりました。もしあの試合でまともに勝負していれば星陵高校は、勝利を収めていたのか?松井秀喜はホームランを打てていたかなど考えればきりが無いのですが、高校野球という建前上正々堂々と勝負しない事が問題です。

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その年の秋ドラフト会議で四球団競合の上、読売ジャイアンツに入団しました。松井秀喜さんを引き当てたのは当時の監督だった長嶋茂雄氏、松井秀喜選手を1000日で4番バッターに育てる計画を立てて育成していきます。

入団1年目こそ、57試合に出場し11本のホームランで終ってしまいましたが2年目以降はフル出場に近い形でチームに貢献し入団10年目に50本のホームランを打ち、本塁打王とチームの優勝に貢献しました。2002年のシーズンをもって巨人を退団。

翌年2003年ニューヨークヤンキースに入団し、かねてから夢としていたメジャーリーガーとして活躍しました。日本同様に4番バッターとして活躍できたわけでは無く、色々な打順を打ち、四球団を渡り歩き手首の骨折なども経験しました。

筋トレの仕方を間違っていたのか膝を痛め、松井秀喜さんの豪快な打力やスイングスピードも落ちて引退を余儀なくされてしまいました。メジャーリーグは一度怪我をすると選手の商品価値は極端に落ちてプレー出来る球団も減ってしまい他の道を探す事になります。

では、9年間海外でプレーしたのですから実際の英語力は如何な物かと言うところに興味は移って行きます。松井秀喜さんは英語の力は高いわけですが、通訳の仕事を奪う事になってしまうため英語をマスコミの前では発言しません。

しかし、チームの同僚等とはかなり深い話が出来るようです。実際はオンとオフを使い分けているようです。そのため本当の英語の実力は不明です。

 

現在は、色々な仕事で日米を行ったり来たりという感じのようで、ヤンキースGM特別アドバイザーではありますが、特に決まった仕事をしているわけではなさそうです。

まあ、特に働かなくてもいいでしょうし、私たちの目に触れない仕事もたくさんあるでしょうから、お忙しくされていることと思います。

最後に松井秀喜さんが残した名言について触れていきます。「僕は変化というのは自分からは求めていません。求めていかなくても変わるところは変わっていくでしょうし。こっちのやり方がダメならあっちの方という考えはないんです」『マルチョン名言集・格言集』引用

長い間一つの事を続けてきた人の言葉はやはり重いですね。今後も色々な名言が生れる事でしょう。

まとめ

松井秀喜さんについてはいつか日本球界で監督をして欲しいと思います。それはどこの球団かは解りませんがユニフォーム姿を見てみたい物です。

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