広津柳浪ってどんな人?その生涯。家族は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]広津柳浪 名作全集: 日本文学作品全集(電子版) (広津柳浪文学研究会)

日本には多くの文学者がおり、多くの作品を残しています。小説の内容を読むことで得られる教訓や感情がありますが、どんな人物なのか知ることでより作品を知ることができます。小説家にもいろいろいますが、その中で広津柳浪と言われる方がいます。

広津柳浪も小説家として多くの作品を残しているため、どのような人物像だったのか知ることで作品を楽しむことができるでしょう。広津柳浪の生涯や家族、性格、またエピソードや死因について紹介しましょう。

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広津柳浪の生涯。どのような人なのか?

広津柳浪は1861年に久留米藩士であり医師の広津俊蔵の次男として生まれました、幼名は金次郎となっており、少年時代から漢籍を学習して軍記物や読本に夢中になるなど、読むことが好きな子供でした。ただ、広津柳浪は9歳のときに父親が狼藉を犯してしまい、切腹を命じられてしまい、家に大きな衝撃が走りました。

幼い年齢で父親を無くした広津柳浪は伯母サワが嫁いでいた肥前国の田代在酒井村の磯野に取り直しをされて、今の佐賀県鳥栖市に移ることになりました。磯野の家に預けられた広津柳浪ですが、本を読むのが好きと言う部分は変わらず、姫方村の塾などで引き続き漢学を学習し、2年後に久留米を経て長崎に帰り、1873年の12歳のときに長崎市に向明学校に入学にすることになります。

ただ、入学して翌年には東京の方に引っ越しすることになったため、番号的学校に転入をして好成績応じて収めることになります。子供頃から本を読んでいたこともあった広津柳浪は知能が高く、卒業後は外国語学校でドイツ語を学習して、東大医学部予備門に入りました。

しかし、1878年の17歳頃に肺尖カタルと言う病気にかかってしまい、そのまま退学することになってしまいます。学校を退学した春に広津柳浪は父親の友人であった五代友厚に大阪へ行くことを誘われ、そのまま付いて行き五代家に居候することになります。

そこで農業務所省の官吏となった広津柳浪ですが、役人として働くよりも文学者としての道を追い求めており「水滸伝」や「南総里見八犬伝」などを読む機会もあったので、夢はより大きく膨らみました。そのため、役人を辞めて小説家になるために行動しますが、1887年に父母が無くなり放浪することになります。

その後1887年に友人で画家であった山内愚仙のすすめもあり、処女作として「女子参政蜃中楼」を「東京絵入新聞」に連載します。その1年後の1888年に蒲池鎮厚の妹である寿美子と結婚して妻を持つようになりました。

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広津柳浪はその後も「東京中新聞」「都新聞」「改進新聞」などを転々として「おのが罪」などの作品を発表して、文学者として才能を発揮していきます。1891年には子供和郎が生まれ、1895年には「変目伝」「黒蜥蜴」など下層社会の悲惨な実態を中心に小説を書いていきます。

悲惨小説という評価があった広津柳浪でしたが、さらに心理的な実写描写を目指して「河内屋l「畜生腹」などで評価をさらに上げていき、樋口一葉と同じほどの評判を得る小説家となりました。1898年に寿美子が死去した後は、高木武雄の娘潔子と結婚。

そして、1904年には「昇降場」を執筆して1908年には長編の「心の火」などの作品を発表しますが、創作活動は低調になり、家賃の滞納などもあって生活苦となります。その後も小説を書きますが、1928年に数年の肺病による心臓麻痺で死去しました。

広津柳浪の家族とは

広津柳浪の家族は父親の広津弘信、母親の柳子、兄弟で兄正人、弟武人、妹でのぶの6人家族でした。広津柳浪はその後結婚して最初の妻に須美、後妻で潔子を娶ります。子供は長男に俊夫、次男に和郎、養女で元子がおり、3人の子供がいました。ただ、父親と母親は広津柳浪が10代のときに死去しており、弟武人も27歳の年齢で死去、最初の妻である須美も27歳で亡くなっています。広津柳浪の家族構成はこのようになっています。

広津柳浪の性格とは?

広津柳浪の性格は真面目で飾り気が無く、穏やかで人当たりの良い人だったと思われます。広津柳浪は親族の助けや友人の助けがあって生活を送ることができ、また小説家としてデビューすることもできました。

友人や親族から嫌われるような性格をしているなら、居候や小説家への誘いもなかったわけなので、人当たりが良かったことが読み取れます。また、学生のときは優秀な成績を収めていることから真面目に勉強に取り組んでいたことも読み取れ、広津柳浪の性格が分かる場面だと感じます。

死因とは?

広津柳浪の死因は心臓麻痺と言われています。広津柳浪は17歳のときに肺尖カタルという病気にかかり、その後も肺に何らかの負担があったと考えられます。年齢が67歳のときに死去しており、心臓麻痺は肺病が原因とも言われているため、肺の調子があまり良くなかったことが考察できるでしょう。

まとめ

広津柳浪について内容を紹介してきました。広津柳浪は1890年代から1920年代まで活躍した小説家であり、67年という生涯を送りました。広津柳浪の小説は数多くの作品を残しているため、興味がある方は小説を読むようにしてください。

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>>広津柳浪の作品の特徴及び評価。おすすめ代表作4選

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