与謝野晶子ってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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「君死にたまふことなかれ」という長詩を書いた与謝野晶子を知っていますか?与謝野晶子は、明治から昭和の時代にかけて活躍した近代短歌史を代表する歌人・詩人です。情熱的なロマン主義の短歌や、詩などを数多く書き、古典文学の研究や教育、女性運動にも大きく貢献しました。女性が恋愛について語ることがよしとされなかった時代に、初の歌集『みだれ髪』で、いきいきと情熱的に自身の恋をえがき、当時の青年たちに大きな影響を与えました。
作家・女性解放活動家などさまざまな方面で活躍し、詠んだ歌はおよそ5万首といわれる与謝野晶子とはどのような人物なのでしょうか。今回は、与謝野晶子の人生についてご紹介します。

与謝野晶子の生涯について

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堺時代

与謝野晶子は、1878年12月7日、現在の大阪府堺市で老舗和菓子屋の駿河屋を営んでいた父・鳳(ほう)宗七と母・津祢(つね)の間に、三女として生まれました。本名は、鳳志よう(しよう)です。晶子はペンネームで、「しよう」が「しょう(晶)」そして「晶子(あきこ)」となったといわれています。

晶子は堺女学校にかようようになった11歳から、店の番や帳簿をつける手伝いをしつつ、教育熱心な父の数ある蔵書や貸本を通し『源氏物語』など様々な古典や歴史の本を読み始めました。
そして1895年頃になると、家業の手伝いをしながら、雑誌に歌を投稿し始めます。
その後、漢詩風の詩を書いていた与謝野鉄幹(本名・与謝野寛)が設立した「東京新詩社」の詩歌雑誌『明星』に、晶子は短歌を熱心に投稿するようになります。
1900年に『明星』の宣伝などで大阪を訪れた鉄幹に会った晶子は、彼の考えなどにつよく共感し、しだいに親交を深めていきました。

上京そして文壇へ

そして翌年6月、晶子は鉄幹をたよって上京します。1901年8月に出版した第一歌集『みだれ髪』は、若者の心に大きな影響を与え、晶子はロマン派歌人の第一人者となりました。『みだれ髪』は、女性が恋愛を語ることがタブーとされていたその時代に、自らの自由な恋のさまざまな感情を情熱的に表現し、女性の官能を率直にうたった作品でした。文壇からは批評が多くあるなど、様々な評価がなされていました。またこの作品で、彼女は新たな女性の生き方をしめすことともなりました。
その後1901年10月、晶子は22歳のときに与謝野鉄幹と結婚します。結婚してから17年の間に晶子は12人の子どもを産み、11人を育てあげました。子育てを一生懸命にこなしながら、大黒柱として精力的に働きます。家庭のため、依頼される仕事はすべて受けるようにしていました。

1904年、日露戦争に行った弟の無事をねがい、「君死にたまふことなかれ」という詩を『明星』に発表します。この長詩は「あゝをとうとよ君を泣く/君死にたまふことなかれ」という詩句ではじまるものです。軍国主義にあった当時、この詩は過激なものととらえられ、大きな論争になりました。
その後も、晶子は『明星』の人気作家として活躍し、歌集『舞姫』など短歌を数多く書いていきます。

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ヨーロッパ訪問をへてひろがる活動の幅

『みだれ髪』、「君死にたまふことなかれ」などで人気を博した『明星』でしたが、時代の変化とともにその人気は下火となり1908年に100号をもって廃刊となります。
『明星』がおわりをむかえてからは、晶子は『源氏物語』の口語訳をかきはじめ、自宅で『源氏物語』や『万葉集』、歌の講習会を鉄幹とひらきました。
また、鉄幹の作品は次第に時代にとりのこされたもののようになり、売れなくなっていきます。スランプに陥った鉄幹の再起のため、晶子はなんとか資金をつくり、ヨーロッパへ見聞をひろめる旅に送り出します。そして、晶子も森鷗外の援助などでようやく費用を調達し、鉄幹の後を追ってヨーロッパにむかいました。ふたりはパリで会ったのち、ロンドン・ベルリンなどをめぐります。日本との大きな違いに驚いた晶子は、日本にかえったあと女性の教育や経済的自立が必要であることを唱え、女性の自立に思想家として力をいれていきました。
『人及び女として』『愛、理性及び勇気』『女人創造』などおおくの評論集を執筆します。
また、教育に関心をもち、文化学院という日本で初めての男女共学の学校を、夫などとともにつくりました。晶子も週2回、晩年まで教師として学生に教え続けます。

それ以降も文化学院で講義しながら、短歌の創作、評論の執筆、講演、子育てなどをこなし、家庭と仕事を両立させる日々を続けていきました。
また、晶子は女学生時代から愛読していた『源氏物語』の現代語訳を、ライフワークとして精魂をこめ、執筆しています。コンパクトに抄訳したものを1912年から翌年にかけて『新訳源氏物語』として全4巻出版した後、2度めの『源氏物語』現代語訳は、関東大震災で10年余り書きためた草稿を焼失しました。しかしそれに屈せず、全訳したものを『新新訳源氏物語』として1938年から1939年にかけて全6巻として発行します。晶子の置かれた状況から生じる気持ちや心情を反映させながら制作したこれらは、躍動感をもったことばでえがかれ、あらたな文学作品となりました。また、多くの人々が『源氏物語』という古典文学を楽しむきっかけとなります。そして、これが晶子最後の大作となりました。

その後1940年に脳溢血が原因で、晶子は半身不随になります。次男・秀の夫婦が家に帰り、彼女が亡くなるまで身辺の世話をしました。
そして1942年5月18日に尿毒症を発症し、5月29日に晶子は亡くなります。享年63歳でした。

与謝野晶子の性格を物語るエピソード

『明星』の宣伝を兼ねて大阪を訪れた与謝野鉄幹と晶子は、歓迎歌会であって互いに共感し、しだいに親交をふかめていきます。しかし、そのとき鉄幹には妻子がありました。
鉄幹をつよく慕っていた晶子は、大阪の実家から家出同然で上京し、ひとまず鉄幹宅ちかくの明星社友の家に身をよせた後、妻・林瀧野が離婚のため実家にかえっていない鉄幹の家にはいります。
そこで晶子は初の歌集『みだれ髪』を『明星』に発表しました。その後まもなく晶子のつよい気持ちが届き、鉄幹は瀧野と離婚し、晶子と鉄幹は結婚します。いまの日本においては、晶子が先妻から鉄幹を奪ったとされてもしかたのないことでした。

死因

晶子は、1940年にわずらった脳溢血で右半身不随になります。そして、1942年1月に症状が悪化し、5月に尿毒症になり、5月29日に63歳で亡くなりました。

まとめ

いかかでしたか?今回は、与謝野晶子の生涯をご紹介しました。
よく知られている『みだれ髪』の短歌は、そのほとんどが鉄幹と出会ってからつくられたものです。彼らの出会いから結ばれるまでが、どのようなものであったかをベースにして作られた文学作品ですので、当時の若者はたいへん興味をもって読んでいたようです。
このほかにも、彼女の子どもによませるために書いたとされる童話もあり、大人でも気軽に楽しめます。また女性解放のための論評など、現代にも通じ、考えさせられる作品も多くあります。与謝野晶子はさまざまなジャンルで多くの作品を残していますので、今回の記事で少しでも興味をもっていただけた方は、まずは気になるジャンルの作品を一冊手に取ってみてはいかがでしょうか。

参考文献
田村景子編著・小堀洋平・田部知季・吉野泰平(2021)『文豪たちの住宅事情』笠間書院

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