夏目漱石ってどんな人?その生涯や家族は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]決定版 夏目漱石全集 日本文学名作全集

「我輩は猫である」や「こころ」など数々の名作を生み出し、日本近代文学の礎を築いた夏目漱石。誰しも一度は漱石の作品に触れたことがあると思います。幕末に生まれ、明治から大正という激動の時代に生きた漱石は、文学を通して人間の「エゴイズム」を表現しました。漱石の作家人生はおよそ10年程度という意外に短いものでしたが、漱石が生み出した作品は現代に生きる私たちに、今もなお「人間とは何か」を語りかけます。今回はそんな夏目漱石の人生を紹介します。

夏目漱石の人生

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夏目漱石の人生を紹介します。写真を見ると高齢のイメージがありますが、49歳という若さでこの世を去りました。今と違って昔の人は貫禄がありますね。

幼少期は複雑だった家庭環境

夏目漱石(本名:夏目金之助)は1867年(慶応3)に現在の新宿喜久井町に生まれました。5男3女の末っ子だった漱石は、生まれてすぐに養子に出されます。古道具屋(八百屋の説も)の養子となった漱石ですが、売り物の横に置かれた漱石の姿を見た姉が不憫に思い、すぐに実家へと戻ります。その翌年、漱石の父・直克の書生をしていた塩原昌之助の元に養子に出されますが、塩原夫婦が離婚をしたことで、9歳で夏目家に戻ることになりました。しかし戸籍上の問題で塩原姓を変更できず、夏目姓を名乗ったのは21歳からでした。

勉強熱心で秀才だった漱石は、いくつかの学校で漢学や文学を学び、大学予備門を経て東京帝国大学の英文科に入学します。この頃に俳人・正岡子規と出会い、生涯の友人として交流します(「漱石」という名前も子規の俳号を譲り受けたものです)。

秀才だったが神経衰弱に悩んだ学生時代

大学時代も優秀だった漱石は特待生に選ばれ、学生時代から東京専門学校(現・早稲田大学)の講師を務めるなど、教員として学費を稼いでいました。しかしこの時期(1890年ごろ)から漱石は神経衰弱に悩まされるようになります。その原因は相次ぐ兄たちの死去や、ひそかに思いを寄せていた三兄の妻・登世の死去が関係していると言われています。

大学卒業後、漱石は高等師範学校(現・筑波大学)の英語教師として勤務しますが、肺結核や神経衰弱など心身に不調が現れ、知人の紹介で愛媛県松山市の尋常中学校に転勤します(松山での経験が「坊ちゃん」のモデルです)。その後、熊本でも教鞭を取った漱石は、文部省から英語教育法の研究を目的としたイギリス留学を命じられ、2年間のイギリス生活が始まります。

イギリス留学を経て作家となる

イギリスへ渡った漱石でしたが、そこでの生活がまったく肌に合わなかったらしく「生活費が足りない」や「授業料を支払う価値なし」など不満だらけの生活となりました。授業に飽きた漱石はウィリアム・クレイグに個人授業を願い出て、実生活では「大いなる遺産」や「二都物語」などで知られるディケンズを読み漁っていたそうです。しかし、もはや持病となった神経衰弱が深刻化したことが当時の政府に伝わり、漱石は日本へ帰国することになりました(余談ですが、イギリス滞在中に「うまみ調味料」の発見者・池田菊苗博士と2ヶ月間過ごしています)。

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イギリスから帰国後、帝国大学と高校で英語教師を務めましたが、前任の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と比較され、あまり評判はよくなかったそうです。こうしたことが原因となり、帰国後も神経衰弱の再発に苦しみます。そんな折、友人の高浜虚子から小説を書くよう勧められた漱石は、虚子のアドバイスをきかっけに「吾輩は猫である」の執筆を始めます。最初は1回限りの読み切りのつもりで書いた漱石でしたが、好評を受けて連載となります。そして教師を辞めて作家として生きる決意をした漱石は、1907年、職業作家として朝日新聞社に入社します。このとき、漱石は38歳でした。

人気作家として、そして晩年

「虞美人草(ぐびじんそう)」で職業作家デビューした漱石は次々と作品を発表し、たちまち人気作家として認知されます。しかし人気が上がるのと比例するかのように漱石に病が襲い、1910年、「門」を執筆中に胃潰瘍で倒れてしまいます。療養のため修善寺で静かな執筆生活を始めたものの、療養中に大量の吐血で生死を彷徨い、これ以降入退院を繰り返します。胃潰瘍以外にも糖尿病や神経衰弱、痔などの病に苦しみながらも「行人」、「道草」、「こころ」などの名作を執筆した漱石でしたが、1916年、「明暗」執筆中に体内出血を起こし帰らぬ人となりました。享年49歳でした。

夏目漱石のエピソード

エピソードの多い夏目漱石ですが、その中から有名エピソードを紹介します。

月が綺麗ですね(都市伝説)

漱石が教員だったころのエピソードです。ある日学生が「I love you」を「我君を愛す」と訳しました。しかしこれを聞いた漱石は、「日本人はそんなことは言わない。月が綺麗ですねとでも訳しておきなさい」と注意したそうです。とても有名なエピソードとして知られていますが、漱石が本当にこのように言ったかどうかは実は不明です。しかし漱石ならば言いそうな言葉として、素敵な都市伝説として語り継がれています。

毎週恒例の「木曜会」のメンバーがすごい

作家として注目された漱石の家には、多くの学者や作家などが頻繁に訪れていました。あまりにも来訪者が訪れたため、作家・鈴木三重吉(みえきち)の提案で毎週木曜日を面会日とする「木曜会」が開かれました。

木曜会に参加したメンバーは、
・岩波茂雄
・寺田寅彦
・内田百閒
・久米正雄
・芥川龍之介
・中勘助
・和辻哲郎
などです。この他にも大勢の文人、学者が門下生として漱石の元を訪れています。

脳と胃が保管されている

たび重なる胃潰瘍に苦しみ、49歳の若さでこの世を去った漱石。漱石の死後、遺体が解剖され、取り出された脳と胃は現在も東京大学医学部に保管されています。ちなみに、脳の重さは1425グラムだそうです。

名誉よりも作家として生きた漱石

1911年、44歳だった漱石は文部省から博士号の授与を通達を受けます。しかし権威主義的な政府を嫌っていた漱石はこれを辞退し「博士号辞退事件」として波紋を呼びました。博士号という名誉より、作家としての誇りを貫いた漱石らしいエピソードです。

まとめ

いかがでしたか?漱石の作品を読むと、頭の中で物語がイキイキと展開し、まるでその世界に自分がいるかのような感覚になります。それは漱石の作家としての巧さが大きな理由ですが、それに加えて、ぞれぞれの作品が「人間の普遍性」をテーマにしているからだと思います。この記事をきっかけに、改めて夏目漱石の作品を読み返してみてはいかがでしょうか。

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>>夏目漱石の作品の特徴及び評価。おすすめ代表作5選

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