佐藤春夫 名作全集: 日本文学作品全集(電子版) (佐藤春夫文学研究会)
佐藤春夫という作家をご存知ですか?佐藤春夫は明治に生まれ、大正から昭和にかけて活躍した近代日本文学を代表する作家の一人です。また作家としてだけではなく、文芸評論や詩人、エッセイストとしても多くの作品を残しました。今回は、佐藤春夫の生涯についてご紹介します。
佐藤春夫の生涯
佐藤春生は1892年(明治25)、和歌山県に生まれました。佐藤家は代々医者の家系で、父・豊太郎も医者でした。春生の文才は父から受け継いだようで、豊太郎は正岡子規を尊敬していたそうです。
中学時代には自作の短歌が新聞に掲載されるなど、春夫は若くしてその文才を発揮しています。また、当時刊行されていた雑誌「趣味」や「新声」、「熊野新報」などにも短歌を発表し、たびたび作品が取り上げられました。この頃に、評論家の生田長江(ちょうこう)や与謝野寛(鐡幹)を知り、文学への関心が強まります。
中学卒業後に上京し、旧制第一高等学校を目指しますが、受験を放棄して慶應大学予科に進みます。当時の慶應大学には作家の永井荷風がおり、春生も永井荷風の授業を受けてたそうです。雑誌「スバル」や現在も発刊されている「三田文学」などに作品を発表し、春生は学生時代から注目を集めました。
慶応大学を中退後、春生はいくつかの雑誌に関わりますが、それと同時に高村光太郎との出会いにより絵画に関心を持つようになります。絵画の才能もあったようで、その実力は「二科展」に入選するほどの腕前でした。1910年代後半に入ると活動の拠点を横浜に移し、代表作である「田園の憂鬱」や「殉情詩集」などを次々と発表します。この「田園の憂鬱」によって、春生は気鋭の作家として注目を集めます。
1920年代は東京の目黒に移動して執筆活動を行います。この頃の春生は中国に関心を持っていたようで、実際に中国を旅行したり、中国文学に傾倒していたようです。1926年(大正15)には、菊池寛などと共に報知新聞社の客員記者となり中国へ渡っています。帰国後は、法政大学予科の講師を担当するなど、活躍の場が大きく広がりました(※1)。
1927年(昭和2)、小石川の新居に移り、全国各地に講演活動をして回りました。この年の芥川龍之介の訃報も旅先で知ったそうです。1935年(昭和10)には芥川賞の選考委員に選ばれるなど、作家としての不動の地位を確立します。またこの年の8月に太宰治を知りました(太宰は佐藤宛に芥川賞の懇願書を送っています)。
やがて太平洋戦争が始まると春生は文士部隊として、マレーやインドネシアのジャワなどに従軍します。帰国後の1945年(昭和20)から長野に疎開し、1951年(昭和26)まで同地で生活しました。その間も雑誌「風流」や「群像」の創刊に尽力し、1948年(昭和23年)には日本芸術院会員になっています。
晩年はその功績が讃えられ、青森や和歌山、千葉や北海道などに詩碑が建てられ、佐藤春夫ゆかりの地として、現在に至ります。また、校歌や県民詩歌も多く手がけており、1964年(昭和39)に開催された東京オリンピックでは、春生が作詞した「オリンピック東京大讃歌」が歌われました。そして東京オリンピックが行われたこの年の5月6日、佐藤春夫は72歳でこの世を去りました。
※1、法政大学の校歌は佐藤春夫によって作詞されました。
妻について
佐藤春夫と妻・千代の関係は、いわゆる「小田原事件」として知られています。春生の妻・千代は、もとは谷崎潤一郎の妻でしたが、谷崎の愛情が冷めてしまったため冷淡な態度をとり、千代の相手をしませんでした。それを不憫に思った春夫は、千代との結婚を谷崎に申し出ます。谷崎は一度はそれを了承したものの、約束を反故にし、谷崎と佐藤は関係を断ちます。しかしその後、谷崎と千代の離婚が成立し、佐藤は千代と結婚することができました。こちらも「細君譲渡事件」として当時の新聞に取り上げられました。
性格を物語るエピソードは?
佐藤春夫は弟子が多いことで有名で、その中には井伏鱒二や太宰治、遠藤周作などの一流作家がいます。佐藤春生は好き嫌いがはっきりした性格だったらしく、自分を慕う人はどこまでも面倒を見たそうですが、そうではない人間はほとんど相手にしなかったと言われています。
また三島由紀夫も佐藤家に出入りしており、初対面の感想を「大家の内に仰ぐべき心の師はこの方をおいては」と友人に送っていますが、三島が書いた小説「盗賊」の序文を川端康成に依頼したことが気に入らず、それ以降疎遠になったそうです。
芥川賞の選考員をしていた際、石原慎太郎の「太陽の季節」が自分の意向に反して芥川賞を受賞したため、激怒したという有名なエピソードが残っています。
死因について
1964年、ラジオ放送の収録のため自宅の書斎で録音を開始したところ、突然胸の発作に襲われ倒れました。死因は心筋梗塞です。録音には「私は幸にして・・・」という部分で切れていました。享年72歳。京都の知恩院に葬られ、忌日は「春日忌」と呼ばれています。
まとめ
いかがでしたか。今回は佐藤春夫の生涯についてご紹介しました。佐藤春夫は72年という生涯で数多くの著作を残し、日本の文壇において重要な役割を果たしました。その著作は、現代においても読む人の心に訴えるものがあります。この記事をきっかけに、ぜひ佐藤春夫の作品を読んでみてください。
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