小林多喜二ってどんな人?その生涯や生い立ちは?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]『小林多喜二作品集・24作品⇒1冊』【蟹工船・関連作品収録】

小林多喜二という作家をご存知ですか?小林多喜二の名前は知らなくても「蟹工船」という作品をご存知の方は意外と多いかもしれません。小林多喜二は、20世紀初頭に生まれ、29歳という若さでこの世を去った日本のプロレタリアート文学を代表する作家の1人です。貧しい家に生まれた小林多喜二は、どのような人生を歩み、作家となったのでしょうか。今回は、小林多喜二の生涯やエピソードをご紹介します。

生い立ちと生涯

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小林多喜二の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。わずか29歳で壮絶な死を迎えた多喜二の生涯をご紹介します。

幼少時代から銀行員時代

小林多喜二は、1903年(明治36年)、秋田県下川沿村(現大館市)に生まれました。貧しい家庭に生まれ、苦労が多かったそうです。多喜二が4歳のときに、北海道で工場をしていた叔父を頼り一家で小樽に移住します。叔父が営んでいたパン工場で住み込みで働き、多喜二は小樽商業学校、小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を無事に卒業することができました。またこの頃から、労働者に対する問題意識が芽生え始めていたそうです。小樽高等商業学校の後輩には作家で詩人、翻訳家であった伊藤整がいます。

1924年(大正13年)に小樽高等商業学校を卒業した多喜二は、地元北海道の銀行に就職し一定の収入を得られるようになりました。またこのころ、5歳年下のタキと出会い恋人となります。タキは13歳のころから父親が作った借金を返すために飲み屋で働いており、その境遇を知った多喜二が家族として小林家に向かい入れました。しかしタキは、多喜二との身分の違いに引け目を感じていたため、7ヶ月で家を出てしまったそうです。

1920年代の後半になると、多喜二は以前から関心のあった作家活動に本気で取り組むようになりました。

文壇へ

1927年(昭和2年)、労農芸術家連盟に「防雪林」を発表し、翌年1928年(昭和3年)にはマルクス主義者が一斉検挙された事件を題材にした「一九二八年三月一五日」を発表。この作品の発表以降、多喜二は特別高等警察(特高)に目をつけられるようになります※1

1929年(昭和4年)、代表作「蟹工船」を発表し、これにより多喜二の名前は世に広く知られることになりました。このとき多喜二はまだ26歳という若さでした。

「蟹工船」が成功したのは良かったものの、翌年1930年(昭和5年)は多喜二にとって大きな節目の年となりました。その年の5月には共産党に資金援助をしたとして逮捕され、7月には「蟹工船」の内容が不敬罪にあたるとして追起訴となります。さらに8月、治安維持法に抵触した罪で刑務所に収容されました。

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1931年(昭和6年)1月、多喜二はおよそ5ヶ月後にようやく保釈され、この年に日本共産党に本格的に参加します。さらに翌年の1932年(昭和7年)には、当局による監視の目を警戒するために地下活動生活に入ります。このときのようすが描かれているのが、「党生活者」です。

1933年(昭和8年)2月20日、日本共産党に潜伏スパイをしていた三船留吉(とめきち)の罠にかかり、赤坂にて逮捕され、連行された築地警察署にて同日死去しています。まだ29歳という若さでした(詳しくは死因を参照)。

※1・特別高等警察とは、労働組合や反戦活動家の活動を取り締まる警察のことです。

性格やエピソードは?

共産主義的思想に傾倒した多喜二でしたが、子供の頃から文学や芸術を愛する優しい少年だったと言われています。貧しい境遇に育った多喜二でしたが、銀行員になった初任給で弟にバイオリンをプレゼントしたり、育ててくれた両親への仕送りは欠かしませんでした。

文学にとても熱心だった多喜二は、尊敬していた志賀直哉に何度も手紙を送り、志賀直哉に名前を覚えてもらうまでになりました。多喜二の代表作である「蟹工船」も志賀直哉に送られており、その評価を問うています。こうしたエピソードから、多喜二は優しい一面を持ちながらも、若く自信に溢れた一面があったことがうかがえます。

その後、多喜二と志賀直哉との親交は深まり、多喜二が亡くなった折には、志賀直哉は香典と弔文を送っています。

死因は?

小林多喜二の死は壮絶なものだったそうです。1933年2月20日、日本共産党青年同盟にスパイとして侵入していた三船留吉から、東京の赤坂に呼び出されます。しかし赤坂の待ち合わせ場所には、共産党員を取り締まる特別高等警察(特高)が待ち伏せていました。なんとか逃げようとした多喜二でしたが、捕まってしまい、その日に築地警察署に連行されました。

そして捕まったその日に激しい尋問(拷問)を受け、29歳という若さでこの世を去りました。多喜二の遺体の損傷は激しいものだったらしく、とくに下半身は内出血によって赤黒く腫れ上がっていたそうです。その姿を見た多喜二の母・セキは「みんなのためにもう一度立ちなさい!」と泣き崩れたと言われています。

こうした事態にも関わらず、警察は多喜二の死因を「心臓麻痺」と発表し、司法解剖も行われなかったようです。変わり果てた姿になった多喜二を友人たちが囲み、その死を悼(いた)む写真が今も残されています。

まとめ

今回は小林多喜二の生涯をご紹介しました。多喜二は、虐げられた労働者の立場や厳しい労働環境を鋭く観察し、資本主義社会における貧しい人々の生活を「生々しく」描きました。その観察力や洞察は鋭く、現代に生きる私たちにとっても多喜二の作品は強く訴えかけるものがあります。この記事を機会に、ぜひ小林多喜二の作品を読んでみてはいかがでしょうか。

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>>小林多喜二の作品の特徴及び評価。おすすめ代表作3選

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