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種田山頭火(以下山頭火)という俳人をご存知ですか?学校の教科書にも出てきますので、一度は聞いたことがある方も多いと思います。山頭火は学生時代から俳句の才能を示し、人生の後半では日本全国を旅しながら俳句を読みました。そのスタイルは自由律俳句と呼ばれ、形式に囚われずにありのままの感情を表現した作品を多く残しています。生涯で8万句の俳句を詠んだと言われる種田山頭火とはどのような人物だったのでしょうか。今回は、種田山頭火の人生についてご紹介します。
種田山頭火の生涯
種田山頭火(本名・種田正一)は1882年(明治15)、山口県佐波郡(現・山口県防府市)に5人兄妹の長男として生まれました。幼少の頃はとても裕福だったようで、地元では「大種田」とも言われていたそうです。地元の尋常小学校に通った山頭火ですが、10歳の頃に母が実家の井戸で投身自殺をしてしまい、以降は祖母に育てられました(この母の死は、山頭火の人生に大きな影を残すことになります)。
1896年(明治29)、14歳で私立周陽学舎に入学し、このころから同人雑誌や句会などを開き俳句に親しむようになります。山頭火は非常に優秀な生徒だったそうで、この学校を首席で卒業しています。
中学卒業後に上京し、東京専門学校(早稲田大学の前身)の高等予科に入学。1902年に早稲田大学文学部に入学しますが、2年後に神経衰弱のために退学してしまいます。退学後もわずかな期間東京に残りましたが、実家の山口に帰ることになりました。
実家では父・竹治郎が酒造場を買収し「種田酒造」を始めますが、経営はうまくいかなかったようで、家や屋敷を失うことになってしまいます。そんななか山頭火は、1909年に妻・サキノと結婚し、翌年には長男を授かりました。
1910年代に入ると、山頭火は俳人としての活動を本格化し「田螺公(たにしこう)」の俳号で俳句を投稿したり、ロシアの作家ツルゲーネフの翻訳などをしていました。1913年には、荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい)が主催する「層雲」に投稿句が掲載され、山頭火の俳人としての名声が高まっていきます。また荻原井泉水門下には尾崎方哉(ほうせい)がおり、のちに「動の山頭火、静の方哉」と並び称されるようになります。
1916年(大正5)、「層雲」で頭角を現した山頭火は俳句の選者として活躍する一方で、実家の種田酒造が経営困難になり破産するという事態に遭遇します。これを機に父・竹治郎が行方不明となり、山頭火は友人を頼り妻子と共に熊本に移住します。熊本では書店や額縁店などをしながら生計を立てていたそうですが、あまり上手くいかなかったそうです。
1919年(大正8)、妻子を残し一人上京した山頭火でしたが、東京では関東大震災に被災したり、社会主義者と間違えられて巣鴨刑務所に勾留されるなどの不運が続き、熊本に戻るはめになります。熊本に戻ってからも泥酔して路面電車を停止させるなどの問題行動を起こした山頭火は、熊本市内の報恩禅寺に寺男として奉公し、やがて「耕畝」と改名し出家します。このとき山頭火は42歳でした。
出家した山頭火は、雲水姿で全国を旅しながら雑誌「層雲」に俳句を投稿するようになります。1932年(昭和7)には、故郷の山口に「其中庵」(ごちゅうあん)という庵を構え旅の拠点とし、仲間たちとよく句会を開いたそうです。その後も、山梨、長野、山形、仙台、岩手など全国を周り、多くの作品を残しました。1938年(昭和13)に「其中庵」を離れ山口市の湯田温泉に「風来居」を結庵(ゆあん)しますが、環境が肌に合わなかったようで、翌1939年(昭和14)に四国へと移動し、愛媛県の松山に「一草庵」を結庵します。四国では八十八箇所のお遍路も経験したそうです。もしかしたらこの時期、山頭火は死に場所を探していたのかもしれません。それを表すかのように、当時の日記に次のように書いています。
「人間の死所を見つけるのは難しいかな、私は希う、獣のように、鳥のように、せめて虫のようにでも死にたい、私が旅するのは死場所をさがすのだ」と。
旅と俳句と酒に生きた山頭火でしたが、1940年(昭和15)、仲間たちとの宴会ののち、眠るように静かに亡くなりました。
性格を物語るエピソードは?
大の酒好きだった山頭火。酒にまつわるエピソードが多く残っていますが、なかでも有名なのが、泥酔して熊本市電を止めた事件でしょう。このときは無事にすみましたが、酒に飲まれることも多かったようです。一説によると、この事件は山頭火の「自殺未遂」だったのではないかと言われています。人生で何度も神経衰弱を起こし療養していたので、酒を飲むのは寂しさを紛らわすためだったのかもしれません。
また遠くに旅に出るときには、若くして亡くなった母の位牌を常に持ち歩いていたそうです。それだけ、母の死が山頭火に強い影響を及ぼしていたことがうかがえるエピソードです。
死因について
晩年を過ごした「一草庵」で句会を開き、いつものように仲間たちと酒を酌み交わしていた山頭火。酒宴もお開きとなり仲間たちは帰っていったそうです。そのとき山頭火はイビキをかいて寝ていたようで、誰も起こそうとはしませんでした。しかしその晩、山頭火は脳溢血ですでに意識不明となっていました。そして後日、心臓麻痺のため亡くなりました。享年58歳。
山頭火が最後に残した句は、
「もりもり盛り上がる雲へあゆむ」でした。
まとめ
種田山頭火の人生についてご紹介しました。山頭火の人生観には、幼い頃に経験した母の死が大きな影響を与えたと言われています。山頭火の人生を俯瞰してみると、「幸せな」人生には思えないかもしれません。しかしそんな境遇の中でも山頭火は俳句を詠み、自分の人生を真っ当したのではないかと思います。山頭火の俳句は今でも多くの人に愛されていますので、ぜひ一度山頭火の俳句に触れてみてはいかがでしょうか。
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