出典:[amazon]森茉莉 私の中のアリスの世界 (人生のエッセイ)
森茉莉は、独特の審美眼をもち、優雅で耽美的表現を得意とした昭和後期の小説家・エッセイストです。あでやかで美しい文章が印象的で、独自の世界観を築いています。また、父・森鷗外についてのエッセイも多く書いており、晩年まで活動しました。
裕福な家庭に育った茉莉ですが、筆をとったのは、生活のため必要にせまられてのことでした。「夢をみることが私の人生」と語っていた森茉莉は、どのような人物だったのでしょうか。今回は、森茉莉の生涯やエピソードなどをご紹介します。
森茉莉の生涯
誕生から結婚そして離婚まで
森茉莉は、1903年(明治36年)1月7日に父・森林太郎(鷗外)と母・志げの長女として、東京市本郷区に生まれます。
父は、軍医で小説家の森鷗外です。兄妹に、於菟、不律(生後まもなく死去)、杏奴、類がいます。兄の於菟は、鷗外と最初の妻・登志子の間にうまれた長男です。裕福な家庭で何不自由なく育ち、父に溺愛された茉莉は、16歳まで鷗外の膝の上にのっていたといいます。
東京女子高等師範学校附属小学校(現・お茶の水女子大学附属小学校)に入学しましたが、裁縫教師となじめず中退し、仏英和尋常小学校(現・白百合学園小学校)に転校しました。
そして、1919年3月に仏英和高等女学校(現・白百合学園高等学校)を卒業し、同年11月、父の紹介でフランス文学者の山田珠樹と結婚します。
翌1920年に、長男が生まれ森鷗外により、と名付けられました。フランス文学研究のため渡欧していた夫のもとに1922年から行き、フランス・パリで暮らします。この間、夏の旅行中ロンドンで父が亡くなったことを知り、茉莉は大きな悲しみに浸ります。
翌年帰国し、1925年には次男の亨が生まれました。しかし、夫との仲が悪くなるなどして1927年、茉莉は2人の子どもを残し、離婚して千駄木町の実家に戻ります。
その後1930年に、東北帝大医学部教授の佐藤彰と再婚して仙台市に移住しました。しかし田舎暮らしがあわず、翌年離婚し、ふたたび東京の実家に戻ります。
文壇への助走期間
1933年にジイプ作『マドゥモァゼル・ルウルウ』を翻訳し、与謝野晶子の序文をつけて刊行しました。1936年、母の志げが亡くなり、それ以降千駄木町の実家に弟の類とふたりで暮らします。
1941年には類が結婚し、茉莉は家を出て下谷神吉町の勝栄荘に移りました。しかし1944年、茉莉は弟類の妻の縁戚をたより、類の家族と福島県に疎開します。2年後、妹小堀杏奴の家で、会えなくなっていた次男亨と再会しました。
1947年に疎開先から、東京に帰り、杉並区永福に間借りし始めます。1951年、長男と再会し、一時は恋人のように頻繁に会っています。この年、世田谷区下代田町(現・代沢)の倉運荘アパートに移りました。
1953年の終わりごろから翌年まで、茉莉は暮しの手帖社に客員として在籍し、時々随筆をかきます。そして、この辺からさまざまな文人との交流がはじまりました。
文壇に登場
1957年2月、森茉莉は54歳で父・森鷗外を回想した最初の随筆集『父の帽子』を上梓し、これにより第五回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しました。そしてこの著書を室生犀星が読み、茉莉の文才を認めます。
翌年6月はじめて茉莉は室生犀星を訪問し、これ以降交流がはじまりました。10月には鷗外のことを語った、2作目の随筆集『靴の音』を刊行します。
1959年2月に、父・森鷗外の30年間の印税支払期限が切れました。本が出版されてもすぐにお金は入らないので、茉莉は母が買ってくれていた高級な着物を一枚ずつ売り、なんとか生活している状態でした。生活のため、書けないという恐怖を抑えながら無理に書いたと茉莉は述べています。
1960年1月倉運荘の茉莉の部屋を室生犀星が訪れます。そして3月に犀星が、婦人公論連載の「黄金の針」第三回に「森茉莉」を発表しました。この直後から茉莉のもとに、随筆の依頼が毎月くるようになり「ひくてはあまたになりました」と、犀星に手紙を出しています。6月には、文芸雑誌「新潮」に「贅沢貧乏」を発表しました。
その後は、小説『恋人たちの森』、随筆集『私の美の世界』などを刊行したり、雑誌に連載記事を載せたりと、さまざまな作品を執筆し活躍する日々が続きます。
1975年3月、『甘い蜜の部屋』第三部完結篇の「甘い蜜」を雑誌「新潮」に発表し、1965年から書きつづけてきた長編『甘い蜜の部屋』が完成しました。8月に『甘い蜜の部屋』を刊行し、これにより10月、泉鏡花文学賞を受賞します。
1979年、茉莉は「週刊新潮」に「ドッキリチャンネル」を連載開始しました。
晩年
1983年に経堂のフミハウスに移ります。その後、1985年2月4日に心臓発作をおこし、入院。その間の、2月28日に最後の連載「ドッキリチャンネル」は終了し、4月29日に茉莉は退院します。
そして1987年6月6日、世田谷区経堂のフミハウス自室で、心不全のため茉莉は亡くなりました。享年84歳でした。
森茉莉の息子
1度目の結婚で、フランス文学者の山田珠樹との間に2人の息子がいます。
長男の山田は、フランス文学者で東京大学名誉教授でした。また、次男の山田亨は、平凡社に勤務していました。離婚以来、会えなくなっていましたが、次男とは1946年、長男とは1951年にふたりが成人したのちに再会しています。以降断続的に交流しており、晩年最期の住処フミハウスにも、ふたりとも訪れていました。
森茉莉の性格を物語るエピソード
家事はできなかったけれど、料理だけは上手だった茉莉
裕福な家庭でお嬢様そだちの茉莉は、顔や髪をあらうのもお手伝いさんにしてもらっていたという暮らしぶりでした。甘やかされて育ち家事ができず、一人暮らしになってからの茉莉の部屋は、足の踏み場もないほど散らかり放題でした。しかし、食べることが大好きで食いしん坊の茉莉は、料理だけはなかなかの腕前。「私の料理は天性」と茉莉自身語っています。子供のころ食べた豊かな料理を、舌で鮮明におぼえていて、それを料理や食べもののエッセイを書くことに役立てていたのです。文人なかまのあいだでも、茉莉の料理はとてもおいしいと評判でした。
生きるためにペンをとった
子どものころは、何不自由ない豊かなくらしをしていた茉莉でしたが、離婚後はひとり暮らしをし、生活のため筆をとりました。
文壇デビュー作の『父の帽子』を執筆した後も、年に1度か2度原稿依頼が来る程度でした。その後、父の印税支払期限がきれます。
それから茉莉の文才をみとめた室生犀星が、当時連載していた「黄金の針」に彼女のことを書くと、執筆依頼が多くくるようになりました。そして、原稿料が入るまでは高級な着物などを売って、凌ぐせいかつをしていたそうです。
少しでも超過したぶんを、明日はどこで節約しようかという暮らしぶりでした。
「私は(書けない)といふ恐怖を抑へつけながら鉛筆を固く握つて書いた。」と『小さな原稿紙とボールペン』で茉莉はかいています。
切実な現実をまえに、書けないという恐怖をおさえながらも、茉莉は書く道を選びました。
森茉莉の死因
1987年6月6日に世田谷区のフミハウス自室で、心不全のため84歳で死去しています。当時、茉莉は一人暮らしで、通いの家政婦に発見されたときは、死後2日が経過していました。
まとめ
いかがでしたか?今回は森茉莉の生涯について紹介しました。
茉莉は、離婚したのち実家から離れたアパートにひとり気ままに暮らしながら、生涯宝石のようなことばをちりばめた幻想的な作品をうみ出しつづけました。
森茉莉の作品には、美しいことばを苦心して丁寧につくりあげ、夢をみさせてくれるような魅力があります。今回の記事で少しでも興味をもっていただけた方は、この機会に森茉莉の作品に触れてみてはいかがでしょうか。
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