安部公房ってどんな人?その生涯は?性格を物語るエピソードや死因は?

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安部公房は「急死しなければノーベル文学賞を受賞していたでしょう」と言われるほど、国内外から高い評価を受けていた作家で、小説家、劇作家、演出家でもあります。第二次戦後派と呼ばれ、その作品はシュルレアリズムを中心とする数多くの名作を残し、多くの賞を受賞しました。
今回は、安部公房の人生やエピソードをご紹介します。

安部公房の生涯

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ここでは、安部公房の生涯を見ていきましょう。

誕生から学生時代

安部公房は、1924年(大正13年)に東京都で生まれました。父・阿部浅吉は医師で、満州医科大学に勤務していました。母は父が東京に来ていた際に出会った井村よりみです。公房が8ヶ月のときに満州に渡り、奉天の日本人地区で幼少期を過ごしました。小学校では「五族協和」の理念に基づいた教育が行われていました。阿部公房は1937年には旧制奉天第2中学校に入学し、当時は家にあった世界文学全集や近代劇全集などを読み、エドガー・アラン・ポーに感銘を受けたといいます。

1940年には飛び級して卒業し、日本に帰国。旧制成城高等学校に入学し、ドイツ語教師からの影響で戯曲や実存主義文学を読みふける一方、数学が得意で天才と称されたほどでした。同年冬に軍事訓練の影響で風邪をこじらせ、肺湿潤を発症します。一時休学し奉天の実家に帰り療養して復学し、エッセイ『問題下降に依る肯定の批判』は、高校の交友会誌に掲載されます。これが安部公房最初の作品でした。

1943年には戦時下のため繰り上げ卒業し、初の小説『(霊媒の話より)題未定』を書きます。10月には、東京帝国大学医学部医学科に入学しますが、 学生たちが次々と出陣していく様子と、敗戦が近いという噂から家族の安否を気遣い満州に帰ります。召集令状は届いたものの入営前に終戦を迎えました。

終戦の冬に大流行した発疹チフスに感染し、診療にあたっていた父を亡くしました。父を失った家族は、家を追われ転々としながら生活し、年末に引揚げ船に乗り帰国します。北海道の祖父母宅へ入ったものの、田舎の暮らしに慣れなかったのか安部公房は単身上京しました。

作家デビューと結婚、芥川賞受賞

1947年、 女子美術専門学校の学生で日本画を専攻していた山田真知子と 結婚し、真知子が住んでいたアパートで同居生活を始めます。同年、阿部は満州からの引揚げ体験のイメージに基づく『無名詩集』を自費出版しました。

さらに「粘土塀」という処女長篇を発表したのがきっかけとなり、埴谷雄高、花田清輝、岡本太郎が運営する「 夜の会」に参加することとなります。その後「粘土塀」は『終りし道の標べに』と改題され単行本になったほか、シュルレアリズムの手法を採り入れた短編小説『デンドロカカリヤ』を発表しました。

1951年「 壁 – S・カルマ氏の犯罪」が芥川賞の候補となり、川端康成らの推薦により受賞しました。そして阿部最初の短編集『壁』が刊行されます。輝かしい受賞とは裏腹に、 芥川賞受賞前の阿部は極貧状態にあり売血をしながら生活をしているという有様だったそうです。

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劇作家へ・安部公房スタジオ創設

1953年 、初の戯曲作品『少女と魚』を発表し、以後盛んに劇作を行うようになります。その後も『制服』や『どれい狩り』『闇入者』『棒』『快速船』など 続々と戯曲作品を発表していきました。戯曲の他にも、ラジオドラマやテレビドラマなどの脚本を多く手がけ、ラジオドラマ『耳』『口』や子供向けの『キッチュ・クッチュ・ケッチュ』などを放送します。1959年にはラジオドラマ『兵士脱走』を和田力の演出によりテレビドラマ化し『日本の日蝕』としてNHKにて放送されました。

1973年には安部公房自身が主催する演劇集団「安部公房スタジオ」を発足させ、本格的に演劇活動を始めます。発足時のメンバーの中には田中邦衛、山口果林などがいました。安部公房スタジオは堤清二の後援のもとで渋谷西武劇場を本拠地として活動しました。

海外からの人気も高く、アメリカコロンビア大学から名誉人文科学博士の称号を授与され、アメリカ芸術科学アカデミーの名誉会員に推薦されるなどもしました。さらに1979年には安部公房スタジオを率いてアメリカに渡りセントルイス、ワシントン、ニューヨークなどで『仔象は死んだ』の公演をし、反響を呼びました。

1980~90年代・箱根での日々~晩年

1980年以降、安部公房は文壇との付き合いをほとんど断ち、妻とも疎遠になり、箱根の芦ノ湖を見下ろす高台に建てた山荘を仕事場として一人暮らしをするようになります。1982年には体調不良を理由に安部公房スタジオの活動を休止しました。

1991年には最後の小説となった『カンガルー・ノート』を発表します。そして1992年12月25日深夜、 執筆中に脳内出血による意識障害を起こし入院し、翌年1月16日には退院したものの自宅療養中にインフルエンザにかかり再び入院、1月22日急性心不全のため68歳で死去しました。
入院時に愛人山口果林宅より搬出されたためスキャンダル扱いとされましたが、最後は家族に看取られたようです。

安部公房の死後は家族により『安部公房伝』などの作品がまとめられたり、母方の実家から1946年の引き上げ時に船内で執筆したとみられる未発表短編『天使』が発見され『新潮』に掲載されました。

性格を物語るエピソード

安部公房は文壇とは距離を置いており、交友関係もかなり狭かったので、孤高の天才のような、伝説のようなイメージをもたれていたといいます。また日本人作家については、大江健三郎や安岡章太郎、椎名麟三をのぞいてはほとんど認めようとはしなかったそうです。

一方、趣味の領域ではアウトドアやスポーツを好む一面もあり、モーターボートやドライブに家族を連れて行くこともありました。車のマニアとして様々な車種を乗り継ぐことも、カメラマニアとして一部の写真を自身の作品に使用することもありました。先進的な面もあり、日本人で最も早い時期からワープロで執筆したり、ピンク・フロイドのファンであったことから、シンセサイザーを日本で最初期に使用したそうです。

まとめ

数多くの作品に数々の受賞と、輝かしい足跡を残した天才安部公房。彼の多くの作品の中からどれを読んでいいか迷うかもしれませんが、映画化されている代表作や短編もありますので、気になるものからぜひ味わってみてください。

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