出典:ダメなときほど運はたまる ~だれでも「運のいい人」になれる50のヒント~ (廣済堂新書)
萩本欽一さんと言えば、知らない人はいないくらい有名なコメディアンですよね。古くはコント55号で動きのある面白いコントを披露してましたし、その後の司会業、または茨城ゴールデンゴールズの 立ち上げで地域活性化など、活動は多岐にわたります。また、小堺一機さんや関根勤さんなど今ではテレビ欠かせない人材を輩出した師匠としても実績を残され ています。最近では73歳で駒澤大学仏教学部に合格されましたよね。理由は明治座での舞台が終わって、次のチャレンジをしたかったとのことですが、いつま でも挑戦を忘れない姿勢には頭が下がります。今日はNHK「ファミリーヒストリー」で萩本さんの先祖について取り上げられるとのことで、調べてみました。
萩本家の先祖・両親は?
欽 ちゃんといえば、生粋の東京の芸人さんというイメージがありました。確かに萩本さん自身は1941年5月7日に東京市下谷区稲荷町(今の台東区東上野3丁 目)で生まれているので、東京生まれです。ただ、先祖を辿ってずっと東京の人だったかというとそうではありません。萩本さんの両親は何と香川県の小豆島出身だそうで、結婚した後に東京に出てきたそうです。日経新聞に連載されていた私の履歴書によりますと、以下のような記述がありました。
おやじの萩本団治は香川県小豆島のまんじゅう屋の三男坊で、小学校を終えると大阪で薬問屋に奉公したあと、株の仲買店などで働いていたが、父親に島に呼び戻され、地元出身のおふくろ、トミと結ばれて夫婦で東京に出てきた。
出典:日経新聞 私の履歴書
団 治さんは、東京に出てきた後は、自宅の長屋でカメラ屋さんを始めました。廃業したカメラ屋さんを買い取って大きくなり、一時期は銀座などに7店舗を構えて いました。浦和に大きな邸宅を構えて、お手伝いさんもいたそうです。また、「ダンカメラ」という商標でカメラの製造にも進出しました。が、そのカメラ製造 が失敗し、萩本家は貧乏になってしまいます。失敗した理由ですが、「ダンカメラ」は小型のカメラだったのですが、当時のカメラは高級品だったので、人に見せびらかすことが出来るような大きいカメラがウケていたようで全く売れなかったのが原因です。
お 母さんのトミさんは日本にまだ3人しかいなかったころのタイピストだったそうです。女子高等師範学校を出て、まだ珍しかったBG(ビジネス・ガール)をし ていたとのこと。萩本さんが芸人になることに反対していたそうで、売れてから疎遠になっていきました。晩年は物忘れはひどくなったりして大変だったそうで すが、101歳まで長生きされました。
萩本家の兄弟、奥さんや子供は?
極貧の生活に転落してしまった萩本家ですが、父が 作った借金を萩本さんが返済した後に、家族が「解散」をしてしまいました。次兄が提案したそうです。それぞれがそれぞれの道を歩こうということで、両親は 小豆島に帰ったそうです。他の兄弟は下記のとおり、それぞれのフィールドで自立にして頑張っていらっしゃったようです。
兄・功(プラスロン化粧品会長)
姉:玲子
兄:安是(やすよし)。早稲田大学理工学部卒業後、商社に勤務した
姉:圭子
弟・悦久(よしひさ。東京創価小学校校長)出典:家系図
ま た、萩本さんの奥さんは澄子さんとおっしゃいます。何でも元々踊り子さんで萩本さんがどん底の時代に支えてくれた人らしいです。萩本さんが売れてからぷっ つりと消息を絶ったらしいですが、それでも萩本さんは、どん底の時に支えてくれた澄子さんこそ結婚したい人だと思い、結婚。3人の子供に恵まれました。そ れぞれ、一童さん、越史さん、征九郎さんとおっしゃるそうです。また、親族には、プロテニスプレーヤーの萩本愛里さん(姪の子供)、銀座カツミ堂写真機店 (株式会社カツミ堂写真機店)会長の藤本克巳さん(はとこ)などがいらっしゃるようです。
まとめ
萩本さんは、視聴率 100%男として、飛ぶ鳥を落とす勢いがあった時期があったかと思うと、後輩芸人の人気を食われて勢いを無くしたりと、浮き沈みの激しい芸能界の中で常に 戦ってきました。その根底には家族との色々なエピソードがあったのだなと思いました。筆者のどん底の時に萩本さんの「ダメなときほど運はたまる 〜だれでも「運のいい人」になれる50のヒント〜」を読ませていただきましたが、とても救われたのを覚えています。これからの大学生活を含め、新しい欽 ちゃんのチャレンジを応援しています!
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