フランツ・ヨーゼフ・ハイドン。その生涯や性格は?

出典:[amazon]100% Haydn

今回は、「交響曲の父」と呼ばれている「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」についてまとめたいと思います。

生涯

まず、はじめにフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)(以下ハイドン)は、オーストラリアのローラウという村にて生まれました。幼少期から音楽の才能を開花させていたハイドンは6歳になった時に親戚の家に送られ音楽の勉強を本格的に始めました。

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1740年、ハイドンが8歳の時にウィーンの聖シュテファン大聖堂聖歌隊の監督に才能が認められウィーンに移り住み聖歌隊員として9年間在籍していました。在籍中は大聖堂の他にも様々なお仕事を受け持っていました。例えば、他の教会のミサでの奉仕や貴族等の宮廷で行われていた音楽会等にも参加していました。

また、聖歌隊員は「6人」という人数制限があり共同生活を送っていたそうです。この時は音楽の他にもカトリック教、ラテン語など普通の学校でも教えるような内容の授業も行っていました。しかし、男性というのは変声期が訪れます。変声期を迎える少し前にハイドンの弟であるヨハン・ミヒャエル・ハイドンが同じ聖歌隊に入隊し変声期を迎えてしまった兄の代わりにハイドンの地位を兄に代わって得ました。

やはり、女性と違い男性は変声期がある分高い声を歌える人と歌えない人が出てきてしまうのは声帯の問題なのでしょうがないです。「ボーイソプラノ」と言われ歌っている人がいますがそれは、まだ変声期を迎えていない男の子がソプラノと同じ音域を歌うことを言います。簡単に言えばウィーン少年合唱団です。彼らも変声期前のかわいい声で綺麗なハーモニーを醸し出してくれます。しかし、彼らも変声期を迎えてしまうとどうしても高い声が出なくなってしまう方が出てきます。すると自然と世代交代という形でメンバーが入れ替わります。このハイドンが所属していた聖歌隊も同じだと言えます。しかし、ハイドンが自ら確立した地位を変声期が来て役目を終えたからと言う理由で弟に取られてしまうのはなんとも言えない感情に陥りますね。そして、ハイドンはそのまま定職に就かず聖歌隊をやめました。

その間10年間はあまり資料が残っておらず何かしたといった情報はあまり見つかっていませんがこの間に本格的に作曲を始めたのではないかと言われています。根拠としてはこの時期に作曲した作品によって徐々に作曲家として認められるようになったからと言われています。

そして、10年経った1759年にボヘミアのカール・モルツィン伯の楽長の職に就きましたが経済的に苦しくなりハイドンは解雇されてしまいます。しかしこの後1761年ハンガリー有数の貴族エステルハージ家の副楽長という地位を得ました。すると楽長であったグレゴール・ヴェルナーの死去により楽長に昇進することが出来ました。そしてハイドンは約30年間エステルハージ家で働きながら数多くの作品を作曲しました。

また、後半は作曲家として人気が集まりエステルハージ家以外での外や出版のために作曲をするようになりました。1781年にはなんとあのモーツァルトと仲良くなり一緒に演奏する以外にもお互いの作品に感銘を受けていたためハイドンはモーツァルトが得意としていたオペラや協奏曲の作成はこの時期からほぼ作らなくなりました。

1790年にエステルハージ家のニコラウス伯爵が亡くなってしまいます。しかし、この後の後継者は音楽に一切関心を持たなかったためハイドンは解雇されてしまいました。その後ハイドンは年金暮らしになってしまいました。しかしこの年金暮らしもハイドンにとってはあまり苦ではなく生活の最低限は保障されている上、自由に音楽を作る時間がたっぷりあったためハイドンにとってみればあまり苦ではない老後だったと思います。

そして、ドイツで活躍する音楽関係の主からイギリスで新作の交響曲を管弦楽団で演奏するという計画を受け入れました。2度のイギリス訪問は大成功に収めて名声を得ることが出来ました。又この時に演奏された交響曲はハイドンが「交響曲の父」と呼ばれるようになったのであろう有名な「交響曲第94番 ト長調〈驚愕〉」や「交響曲第100番 ト長調〈軍隊〉」が演奏されました。

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そしてハイドンはこのままイギリスに移り住もうか悩みましたがウィーンに戻ります。そして1792年にベートーヴェンがドイツのボンからウィーンに留学しに来ました。そしてハイドンの下で作曲のレッスンを受けました。1796年ハイドンは一度解雇されたエステルハージ家楽長に再就任することとなりました。理由としては、音楽に理解のあるニコラウスⅡ侯に代わったためです。

1802年にはハイドンの作曲活動はほぼ終わっていました。実はハイドンは持病が悪化してしまい作曲どころではなくなってしまいました。詳しくハイドンの持病について書かれている資料を見つけることが出来ませんでしたが「鼻ポリープ」に悩まされていたという話を耳にしました。このポリープが後鼻孔に落ちてしまい呼吸が難しくなり手術を受けていたそうです。しかし、今みたく医療も発展しておらず麻酔はまだありませんでしたので今も勿論大変ですが今以上に大変なことだと思います。そしてハイドンはナポレオンがウィーンに侵攻中に亡くなりました。

性格は?

次はハイドンの性格についてです。ハイドンは長い間エステルハージ家の楽長として勤めていた際になかなか家に帰れなかったハイドンが侯爵に要望として作品を通して伝えようとして作曲されたのが交響曲「告別」です。この曲は演奏中に次々と奏者が立ちそのまま席から離れて退場します。この様子から侯爵が意図を読みより休みを設けたそうです。このように周りに優しかったということが読み取れます。

また、モーツァルトと出会った際に曲を聴いて「悔しい、モーツァルトよりも良い曲を作ってやる」ではなく感銘を受けるほど心が広くそして他人の良いところを見つけることが出来るハイドンは優しく大らかな性格だったと言えるでしょう。

まとめ

今回はハイドンについてまとめさせていただきました。ハイドンは他にも有名な音楽家モーツァルトやベートーヴェンと交流がありました。そのため、ハイドンはモーツァルトの得意とするジャンルの作曲をやめるなど一定の距離を保ちながら親交を深めていたことが分かりますね。

また、「交響曲の父」と呼ばれるほど数々の交響曲を世に出しました。交響曲というのは曲にもよりますが数楽章の構成で演奏時間は1時間を超えるものもあります。そのような超大作を数々生み出したハイドンは超人ですね。

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