正宗白鳥ってどんな人?その生涯や家族は?性格を物語るエピソードや死因は?

出典:[amazon]正宗白鳥 名作全集: 日本文学作品全集(電子版) (正宗白鳥文学研究会)

正宗白鳥(1879~1962)は自然主義の小説家であり、劇作家、評論家としても活躍しました。冷徹かつ客観的なまなざしや虚無感が持ち味である一方、鋭い批評精神が発揮された評論でも高い評価を得ています。抜群の知名度を誇る文豪というわけではありませんが、かの川端康成から「恐るべし天才白鳥」と評された正宗白鳥。その生涯をご紹介します。

正宗白鳥の生涯とは?

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病弱な幼少期とキリスト教への憧れ

正宗白鳥は、1879(明治12)年、岡山県和気郡穂波村(現・岡山県備前市)で生まれました。本名は正宗忠夫(ただお)といいます。正宗家は数百年続く旧家で、白鳥の父・浦二は村長を務めていました。現在、白鳥の生家跡には文学碑が建っています。
地元の小学校高等科を卒業した白鳥は、雑誌『国民之友』でキリスト教を知ります。幼少期より身体が弱く、死への恐怖や救いへの願望が強かった白鳥がキリスト教に惹かれるのは無理のないことでした。キリスト教と英語を勉強したいと考えた白鳥は、上京を決意します。

早稲田大学での日々

1896(明治29)年、正宗白鳥は東京専門学校(現・早稲田大学)英語専修科に入学します。学内では坪内逍遥、学外では内村鑑三の講義を聴く生活を送りました。とくに、内村鑑三は白鳥にとって大きな存在となり、内村の影響で在学中に洗礼を受けるほどでした。
英語専修科に入学した白鳥でしたが、卒業後は史学科・文学科にも在籍しました。その後、早稲田大学出版部を経て、読売新聞社に入社します。文学科を卒業した1901(明治34)年には、田山花袋との間で文学論争を巻き起こしました。キリスト教への信仰は次第に薄れ、在学中に棄教したと言われています。

小説家、評論家として

正宗白鳥は1904(明治37)年に小説『寂莫』で文壇デビューを果たし、1907(明治41)年に発表した『塵埃』で、自然主義作家として注目を集めるようになりました。読売新聞社では文芸や美術、劇に関する批評を執筆していましたが、間もなく退職。「何処へ」「泥人形」「入江のほとり」といった作品を発表し、自然主義文学運動の中心人物となりました。1911(明治44年)には結婚もしていますが、子どもはいないようです。大正時代に入り、自然主義が流行らなくなってからは、執筆活動に翳りが見えるようになりました。そのため、小説から戯曲、評論に軸足を移すこととなります。
1935(昭和10)年には、島崎藤村、徳田秋声らとともに、日本ペンクラブ創立に携わりました。初代会長・島崎藤村の後を継ぎ、1943年から1947年まで2代目会長に就任します。3代目会長は志賀直哉、4代目会長は川端康成でした。
1936(昭和11)年、小林秀雄が正宗白鳥の評論「トルストイについて」を非難したことから論争となります。鋭いまなざしから生まれる独特の評論は多くの人の注目を集め、白鳥の晩年まで発表されました。
戦時中は軽井沢の別荘へ疎開していましたが、1957(昭和32)年に帰郷。大田区南千束で暮らしました。

正宗白鳥の家族は?

正宗白鳥は6男3女の長男として生まれました。8人の弟妹がいます。

正宗敦夫(1881~1958)

正宗白鳥の弟。国文学者・歌人。

正宗得三郎(1883~1962)

正宗白鳥の弟。画家。

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正宗律四

正宗白鳥の弟。画家。

丸山家嗣

正宗白鳥の弟。実業家(日本パイプ会長)。丸山家の養子となる。

正宗厳敬(1899~1993)

正宗白鳥の弟。植物学者。

正宗猪早夫(1913~1999)

正宗得三郎の息子。正宗白鳥の甥。銀行家(日本興業銀行第3代頭取)。

正宗白鳥の性格を物語るエピソードは?

 

室生犀星との交流

正宗白鳥、室生犀星ともに大田区に自宅を、軽井沢に別荘を持っていました。二人は避暑だけでなく戦時中の疎開先としても別荘を利用し、ほかの文士たちも交え、親しく交流していたそうです。正宗白鳥も室生犀星も疎開してしまったあと、正宗白鳥の自宅の世話をしていたのは、室生犀星の自宅に居候をしていた方でした。室生犀星は1962年3月に亡くなり、同年10月、白鳥も他界しています。

「きっちゃてん」でコーヒー

NHKのラジオ番組の中で、白鳥はお酒が飲めず、野球や女性にも興味がなく、趣味といえば散歩がてら「きっちゃてん(喫茶店)」でコーヒーを飲むことだと話しています。数々の論争を巻き起こし、冷徹とも言われる作風の白鳥の趣味が「きっちゃてん」であるという意外性が面白い一コマです。文壇きっての愛妻家であることも、インタビュアーの口から明かされています。
正宗白鳥と喫茶店について、作家で文芸評論家の広津和郎も『正宗白鳥と珈琲』というエッセイを残しています。ある日、仕事の相談で正宗家を訪ねた広津。広津の仕事場が銀座であったことから、散歩がてら二人で銀座まで歩くことにしました。広津の仕事場の前に着くと、白鳥は「僕はコーヒーを飲んでいくから」と言って、一人で喫茶店に入ってしまいます。すぐに仕事が片付いた広津は、もしかしたらまだ白鳥がいるかもしれないと思い、先ほどの喫茶店に入ってみました。すると白鳥はまだコーヒーを飲んでいるところで、広津を見つけ「ここだここだ!」と叫び、おいでおいでをしたのだそうです。
一般的には、誰かと一緒にいるときに喫茶店に入りたくなったら、たとえ一人でくつろぎたい場合でも「一緒にいかがですか」と声を掛けます。そんな社交辞令は言わず、しかし広津と再会すると快く共に過ごそうとする白鳥の明快な性格に、広津は強く惹かれています。世間では冷たい人間だと思われているが、温かく親切な人柄だった、と白鳥の性格を回想するのでした。

正宗白鳥の死因は?

正宗白鳥は1962(昭和37)年、すい臓がんにより亡くなりました。83歳でした。多磨霊園に眠っています。
大学在学中に棄教したはずでしたが、死の間際に「アーメン」と唱えてキリスト教への信仰を明かしました。その信仰をめぐり、死後論議になったそうです。

《参考文献》

・『百年文庫81 夕』ポプラ社,2011
・伊藤人誉『馬込の家 室生犀星断章』龜鳴屋,2005
・池島信平,嶋中鵬二・聞き手『文壇よもやま話(上)』中央公論社,2010
・広津和郎『正宗白鳥と珈琲』(中央公論社『広津和郎全集 第13巻』収録)

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>>正宗白鳥の作品の特徴及び評価。おすすめ代表作4選

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