5月になりますと、男の子の居るお宅なら5月人形を飾ると思います。
でも、五月人形ってどういう意味があるんでしょうかね?
女の子のお祭りである、ひな祭りって原形はものすごく恐ろしい儀式だったり、悲しい
ものだったりしましたが、5月人形はそういうものがあるんでしょうか?
僕が子供のころにも、実家では五月人形を飾っていましtが別にそんな意識は全く
ありませんし、意味や由来についても考えたことがありません。
そこで、五月人形の意味や由来はどういうものなのでしょうか?その辺を
まとめてみましたのでご覧ください。
五月人形の意味や由来とは?
五月は、一月、二月、三月と同じく節句の一つです。こどもの日は5月5日です。
で、五月は午とかけて、十二支の中の午の季節でもあります。その午の月の
はじめの節句が五日、すなわち午月午日になるんですね。
ですので、一般的には端午の節句等と言われています。
しかし、このような風習というものはもともと日本にはなく、中国から伝わったものが
多いです。ひな祭りももともとは漢の時代というのが有力説です。
五月人形もそうでありまして、もともとは、中国の楚の時代に始まったと伝えられて
いるのですが、由来についてはあまりそこまで詳しく残されてはいません。
楚といえば、ひな祭りの始まりである漢の時代よりも随分前の話しで、春秋時代
の六番目の国ですよね。
もともと、端午の節句というのは、楚国王の側近にいた屈原という人物が亡くなった
ことにより、王様を含め、王室の人間たちが悲しみ、泣き苦しみ、屈原という人は
凄い好かれていた人だったという印象を受けます。よっぽど人柄がよく優しい人だった
のでしょう。
彼は粽がとても大好きだったんです。日本でも結構ポピュラーに食べられますよね。
特に、端午の節句では。
そうなんです。屈原がもともと粽が大好きで王室の人たちはそれを知っていたため、
彼のお葬式、命日には粽を供えたことから端午の節句が始まったとされています。
やっぱり、そうでしたね。ひな祭りも、3人娘の葬式から始まったものでした。
こういう祭りごとって裏には何か悲しい出来事があるみたいです。
ただ、この伝説も微妙なんですね。
というのは、それから時が経過し、後漢になると「風俗通義」という歴史書には、
確かに端午の節句と夏に粽を食べていたということは記録されていたのですが、
屈原と粽の関係性はないと記されていたのです。
違う説では、夏殷周の歴法では、夏至だからという考え方や、呉越の民族
竜図騰から来ているとされているものです。
というのは、トーテムというのは宗教的な考えで自然、動物、植物の総称の
で、つまりマナイズムのようなものです。
それによると、どうやら5月というのはあまり良い季節ではなくどちらかというと
悪にとりつかれやすい季節だったようなのです。まあ、節句というものは基本的に
季節の変わり目ということで、病にかかりやすいためそれを防止するために行われ
るものですから。なんとなくそれは理解できます。
ですので、疾病予防のために粽を食べたり、菖蒲を用いるなどという説の方が
有力なのではないかともされています。まあ、確かに、歴史というものは後から
都合よく書き換えることもできますからね。屈原が全然粽が好きでもないのに、
粽が好きだったと数百年後にでっちあげることもできるわけです。
日本では奈良時代から始まった?
そして、楚の時代、漢の時代いずれも、日本はまだ政治的な整備が行われ
てはおらず、縄文時代、弥生時代といったところです。ですのでようやく中国から
文化を取り入れ始め、ようやく人間らしい生活が始まったぐらいではないでしょうか。
ところが、200年ほど経過し当時710年、平城京に遷都され、奈良時代が始まり
ました。学生の頃はなっとう美味いよ平城京って覚えましたが僕は納豆が大っきらい
な関東人です。
その奈良時代には、宮中では五日の節会というものが行われていました。
髪に菖蒲を突き刺して、武徳殿に赴いた際に天明天皇に菖蒲を献上し、
代わりに天明天皇からは薬玉を下腸されたのです。
当時の貴族の間では、薬玉を作り交換する風習があり、奈良時代にこれが
行われていたことが歴史書に記されています。
日本での端午の節句はコレが一番初めだとされているのですね。
そして、約100年後の平安時代になると陰陽術や鬼退治などの呪術が盛んに
なりました。その中で武具を家に飾る風習が生まれまして、それが端午の節句
五月人形へと変化して行ったんですね。
更に、400年後の鎌倉時代になると菖蒲が尚武と同じ読みであること、
また、菖蒲の葉っぱを剣をイメージさせることからこれまではただの節句であった
のですあ、それから男子の節句とされ、男の子の成長を祈るようになった
ことから、端午の節句、五月人形は男の子のお祭りになったとされています。
つまり、五月人形と完全に体系化されたのが鎌倉時代のことなんですね。
鎧兜と武者人形が始まったのは江戸時代?
鎌倉時代から時が500年も経過した頃です。
徳川家康が天下統一を果たし、戦国時代は終わり徳川時代と言われる比較的
平穏な時代です。
その江戸時代初期には、端午の節句になると、庶民はみな張り子と呼ばれる、
型を紙でコーティングしたしたも疑似の鎧兜を野外に飾るようになったのです。
これは一種のお祭りのようなもので、上流階級だからといって本物の兜を飾る
ということは無く、上流階級の場合は、幣帛のような素木でつくられた檜兜が
飾られていました。
兜飾りには、神降臨に必要な「出し」と呼ばれる造形や人形を目印として
いました。神が降り立つ場所にどこに降りればよいかわからないのでそういう
目印が必要になっていたんでしょう。
考えてもみれば、神棚の前には人がいれば神様が降りてこられます。
神社にも人が入れば神様が降りてこられます。でも誰もいない、何もないと
なると神様は非情に降りて来づらいのか?
でも、それって、全知全能の神としてはどうなんでしょう?
目印なんて無くても降りてこられるのが神様ってもんなのではないでしょうか。
まあ、そんな突っ込みはさておきと、この風習というのは、庶民だけではなく、
貴族など上流階級にも行っていたもので、庶民があまりにも豪華な造形物を
作ると、禁令として処罰されていたため、次第に兜から独立し武者人形が
作られるようになったんですね。
江戸時代から昭和ごろまで、平成の時代である現在は、武者人形だけではなく、
戦隊ヒーローの人形とかも作られています。言わば、武者人形というのは、
現在のフィギアの原型です。日本はオタク文化に染まっていますがそれを作った
のが端午の節句だったのかもしれません。
ひな人形というのはどちらかというと、自分の代わりに災いを人形にとりつかせ、
それを処分するという考え方です。平安時代の上巳から来ているのでそれは
納得できるのですが、それに対し五月人形というのは、人形に神を宿す依代
から来ているとされているんですね。
そういう意味もあるので、目印だけではなく、神降臨のため、神宿しのため
に人形を置いているのかもしれません。
ということで、魔よけの鍾馗、戦国武将、金太郎といった人物を人形化して
いるのというのが説にあります。やはり、伊達正宗、上杉謙信などの戦国武将は、
とても勇敢に立ち向かう、日本のヒーローでもあります。
金太郎といえば、クマと相撲を行っても勝てるほどの力持ち、そういう勇敢な
イメージがあるから彼らを五月人形として飾るのでしょう。
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