リヒャルト・ゲオルク・シュトラウスってどんな人?その生涯や性格・死因は?

出典:[amazon]R.シュトラウス:英雄の生涯

今回は、ドイツにて後期ロマン派を代表とする作曲家の1人であるリヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(以下シュトラウス)についてまとめさせていただきます。いったいどんな生涯を送ってどのような性格だったのでしょうか。

どんな人?


シュトラウスは冒頭でも話した通りドイツにて活動し後期ロマン派を代表とする作曲家の1人です。主に、交響詩とオペラの作曲に力を注いでいました。また、指揮者としても活動していました。父親は主席ホルン奏者、母親はビール醸造業者の娘で、その間に生まれました。そのため、小さいころから音楽教育には力を注いでおり作曲活動も早い時期から始めました。

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実は、シュトラウスの親族にユダヤ人の血が流れている人がいたため、第二次世界大戦後が終結した後にナチスとの関係性について裁判をかけられてしまったそうです。無事結婚することはできたものの、相手は悪妻と言われており、あまり良いエピソードは残っていません。様々な苦悩を乗り越えて世に音楽を送り出してくれたことが分かりますね。

生涯


1864年に、バイエルン王国(ドイツ)のミュンヘンにて生まれました。父親はミュンヘン宮廷歌劇場で主席ホルン奏者として活動し、母親はミュンヘンの有名なビール醸造業者(プショール醸造者)の娘でした。そのため父親から音楽教育を幼少期から受け、時期はあまりわかっていませんが早い段階から作曲活動も行っていました。

しかし、この頃の父親の教えはとても保守的なものだったためこの頃にシュトラウスが作曲した作品も保守的なものが多かったです。父親の音楽教育に対してとても忠実で教えを守っていたのでしょう。そして1882年、シュトラウスが18歳の時にミュンヘン大学に入学しますが、わずか1年後にベルリンに移ります。

そこで音楽について学んだあと、ハンス・フォン・ビューロー(1830~1894 ドイツの指揮者・ピアニスト。今までのオーケストラの指揮と言えば作曲者自ら行うことが多かったがハンス・フォン・ビューローの登場により指揮者としての職業が確立された。)(以下ビューロー)の補助指揮者としての地位を得て、1885年、シュトラウスがわずか21歳の時にビューローが辞任したため後を継ぎました。

その後も様々な活動を経て、1894年にバイロイト音楽祭(毎年7月~8月にかけてワーグナーの作品が演奏される音楽祭。ドイツにて行われる)にて「タンホイザー」を指揮したときのことでした。この時に、ソプラノ歌手として歌っていたパウリーネ・デ・アーナ(以下パウリーネ)と恋に落ち結婚に至りました。しかし、パウリーネはとても激しい性格だったそうです。

ここで悪妻エピソードを1つあげさせていただきます。ソプラノ歌手であるロッテ・レーマン(以下レーマン)がシュトラウス家にお招きされたときに起きた出来事です。庭でコーヒーとケーキを楽しんでいたところに突然嵐が襲ってきます。すぐに避難しましたが嵐はおさまることなく洪水となりました。自分の楽しい時間を邪魔されたためパウリーネは夫であるシュトラウスに八つ当たりをしたそうです。

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その時にレーマンがパウリーネに「シュトラウスに八つ当たりしたところでシュトラウスは雨をやませることが出来るの?」と問いかけます。するとシュトラウスは「僕を庇うとこの事態が悪化してしまう」と言ってあらゆる八つ当たりを受け続けていたそうです。

このように、パウリーネは悪妻として有名だったそうです。そして今までは交響詩ばかり作曲していたシュトラウスも1898年に最後の交響詩を作曲してからはオペラに転身します。しかし失敗続きだったため前々から成功を収めてきた管絃楽曲に戻ります。

しかしどうしてもオペラを捨てきれなかったシュトラウスは詩人であるフーゴ・フォン・ホーフマンスタール(以下ホーフマンスタール)と協力し、ホーフマンスタールが亡くなるまで共作を作り続けたそうです。

第二次世界大戦の終戦後にシュトラウスは親族にユダヤ人の血が入っているということで裁判にかけられてしまいます。結果的に無罪とはなりましたが裁判の被告者となったということもあり、表に出ての活動はあまり行えませんでした。そして、1948年に時間を持て余していたシュトラウスは「4つの最後の歌」を作曲し翌年の1949年に亡くなりました。

性格


シュトラウスの性格についてはあまり詳しい情報は残っていません。しかし、最初の作曲活動は父親の教えもあり保守的な音楽が多かったため教えに律儀な性格だったと読み取れます。しかし、次第に新しい音楽を求めるようになり保守的な音楽からは離れていきました。このことから基本的には律儀な性格だったことが分かりますね。

死因

シュトラウスは1949年に心臓発作で亡くなりました。85歳でした。遺言が残されており、お葬式ではシュトラウスが作曲した歌劇「ばらの騎士」の第3幕にある三重唱が演奏されたそうです。

まとめ

今回はシュトラウスの生涯や性格・死因についてまとめさせていただきました。父親が音楽家であったため幼少期からの音楽教育はさぞ厳しいものだったと思います。しかし、この音楽教育のおかげでシュトラウスは若くして指揮者という地位を得ることが出来て、沢山失敗はしましたが沢山の曲を世に出してくれました。シュトラウスが作曲した素敵な曲を聴いて、その曲を生かしてあげることが残された私たちの宿命かもしれないですね。

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